52年目の真実

52年目の真実、などと大上段に構えましたが、たいした話ではありません。
極めて個人的なことで、ただ単に私が無知だっただけのことです。

一昨年の夏のお盆、私は義理の叔父の初盆に回向しました。私の母の妹の連れ合いですから、私にとって義理の叔父になります。
以前にも書きましたが、私の父は、私が大学生のときに1回目の『食道静脈瘤破裂』で倒れ、以降3度の『食道静脈瘤破裂』と『胃の全摘出』の合計4度の大手術を受けた末に、1993年1月17日に亡くなりました。
1月17日というと、奇しくも2年後の阪神淡路大震災と同じ日です。

父が亡くなって以降、我が家は母と祖母の、女手だけになりました。日常生活では、力仕事が避けて通れないのですが、義理の叔父はそれこそ母の実の弟よりも、親身になってその役割を果たしてくれました。
それほど、恩義のある義叔父の葬儀には、拠所ない事情があって、参列できなかったので、初盆会にはどうしても、と回向したのでした。

さてその折、いや正確には帰省したとき、前年の葬儀にある人物が出席していた、と姉から訊いて私は驚きました。
私とその人物が遠縁だったとは・・・・初めて知った事実でした。
しかも、そのK・Aは亡くなった義理の叔父の実姉の息子ですから、私と違って正真正銘?の甥なのです。

K・Aは、同じ村に生まれ、幼稚園、小学校、中学校と同級だった幼馴染で、思い起こせば、私が小学生の頃、彼の家に遊びに行くと、彼の母親はやけに私に親切だった記憶が残っています。
もちろん、彼の母親の生来の性格もあったでしょうし、私の生家の権勢もあったでしょうが、姉妹(私の母と叔母)と姉弟(K・Aの母と義理の叔父)という繋がりがあったことが根本だったのでしょう。
余談ですが、K・Aには2歳下の弟がおり、彼がなぜか私を慕っていて、私は中学だったか高校だったか、私の参考書を全て彼に譲ったことがありました。

葬儀と違い、初盆は賑やかに行われます。
大勢の親族が集まり、深夜の2,3時頃まで飲み明かすのが慣わしなのですが、その折、さらに驚いたことがありました。
彼が、テレビドラマの『太陽に吠えろ』(古いなあ・・・・)に憧れ、警察官になったことは耳にしていましたが、名詞をもらってびっくりです。
詳細は控えますが、階級は『警部』でしたが、役職は現場のトップというべきものでした。
つまり、凶悪事件が起こると、捜査本部が設置されるのですが、彼が実質的な現場指揮と執っているようなのです。

警視庁や大阪府、神奈川県、愛知県などの大規模警察本部ですと、本部長始め局長クラス、課長クラスも『キャリア』、つまり国家公務員一種試験に合格した者でなければ、なかなかに就くことが難しい役職ですが、小規模警察本部ですと、本部長一人か、その下の部長辺りまでがキャリアで、以外はノン・キャリアの叩き上げ刑事が就いています。
ですから、ノン・キャリア組の彼にすれば、出世のほぼ頂点に達しているようなのです。

さて、凶悪犯罪を捜査しているだけあって、ごつい身体をしていました。身長は私よりやや低いのですが、横幅と胸板が半端ないですね。もちろん、眼つきは鋭く、談笑の中にも時折見せる鋭い視線は幼馴染でなければ、ドキっとするでしょう。
ただ、その場に居た親戚の者たちは、年長者であっても、K・Aの社会的立場を考慮して、丁寧な言葉遣いをしていましたが、私との関係性は昔のままで、私が名前を呼び捨てしたのに対し、彼は○○君と『君付け』にしました。私の田舎で同級生に『君』を付けるのは敬語と同様の意味合いがあるのです。さすがに、私も居心地が悪かったので、名前を呼び捨てにするように言いました。

その日、携帯の番号を交換して別れましたので、昨年帰省した折も、時間があれば一杯やろう、と連絡し合いましたが、残念ながらいっこうに時間が取れず仕舞いでした。今度一杯やるときは、おそらくどこかの警察署長になっていると思われます。

最後に、実はK・Aは、『マドンナ編』の文中の、中学生時代、私が憧れていた美少女と噂になった、まさにその男でした。

マドンナ・大学編・その4

二日後のお昼頃でした。
『ドンドン』と荒々しく玄関の戸を叩く音がしたかと思うと、
『安岡君、安岡君・・・・』
と、大声で私の名を呼ぶ者がいました。喫茶店・Gのママの声でした。

何事が起こったのか?と訝りながら、戸を開けると、
『安岡君、貴方いったい何をしたの?』
と、いきなりママが問い詰めるように言うのです。ですが、口調とは裏腹に怒っている様子は無く、むしろ呆然とした中にも喜びの表情が看て取れました。
『何のことですか?』
私が問い返すと、
『今朝ね、○○庶民信用組合から、
《例の土地の件で話があるので、至急来て欲しい》
と電話があって、急いで行ってみると、なんと、
《私に土地を売っても良い》
と言われたの』
と、ママは興奮した口調で、一気に捲くし立てたのです。
『ああ、それは良かったですね』
私が愛想もなく、極めて事務的に言うと、
『何言っているの。貴方が何かしたからでしょう』
ママは、他人事のように言った私に、業を煮やしたようでした。
もちろん、私には心当たりがありません。
『僕は、何もしていませんよ』
それでも、私が平然と言うと、
『貴方、○○銀行の××専務さん、知っているでしょう』
ママが口にした名は、二日前師の許に相談に訪れ、私がこの件を話した方でした。
ここに来て、ようやく私は事態が飲み込めました。
『調べてみる』
と言われた専務は、実は○○庶民信用組合に直接出向き、支店長と話を付けて下さったのです。というのも、後で分かったことですが、○○庶民信用組合は、○○銀行の孫会社だったのです。

むろん、私がそのような事を知るはずも無く、ただ師の許を訪れた人物が銀行の役員だということで、口に出しただけのことなのです。しかも、どうにかして欲しいとの依頼は一切していません。

『私が話しを漏らした人が、たまたま力のある人だったなんて、ママはラッキーでしたね』
尚も、私が素っ気無く言うと、
『まだ、惚けるの。支店長さんから、
《安岡という学生さんとはどういう御関係ですか?》
と聞かれたので、
《店のお客さんです》と答えると、
《ただの学生さんじゃありませんね。なんせ、○○銀行の××専務が、直に足を運ばれたのですよ。専務は、はっきりと安岡という大学生に頼まれたとおっしゃっていました》
と、感心しきりだったのよ。貴方、いったい何者なの?』
と、ママは興味津々の目で訊ねました。
『ただの学生ですよ。私も××専務さんが、そのようなことをして下さるなんで思いも寄らなかったんですから・・・・』
私は苦し紛れの返答しか出来ませんでした。

言うまでもなく、××専務が私に頼まれたと漏らしたのは方便であり、師の存在があったからに他なりません。私が師の寺院に寄宿したことで、師の知人、檀家からクレームが有ったと言いましたが、実は単なるクレームばかりではなかったようです。

私は、祖母の縁で、たまたま師と出会い、その流れで師の寺院に寄宿することになったと思い込んでいましたが、事態はそのように単純なことではなかったようです。周囲は、師の後継者ではないかと見ていたのです。ですから、この××専務も、私の相談を真剣に受け止め、善処してくれたのでしょう。

私が師の後継者というのは、まんざら当て推量ではなく、事実として、後年には私が師の養子に入る話まで持ち上がりました。むろん、一般の養子縁組ではなく、師の後継すなわち宗教家として後を継ぐのです。
私は師からその話があったとき、ずいぶんと悩みました。

それはそうでしょう。
尊崇する師とはいえ、一般人ではないのです。しかも、同じ宗教人でも、田舎の末寺に養子に入るのではありません。末寺には違いありませんが、○○以来の傑物との評価を受け、将来大本山の貫主に上り詰められる、いや法主の座も決して夢ではない、宗門を背負う一人になられるであろう高僧の後継なのです。
終生、周囲から比較をされ続け、決して凌駕することのできない巨人の後継など、成りたくないというのが本音というものです。

さらに、姉が二人いるものの、私は長男です。たいした家ではありませんが、長男としての最低限の務めというのもあります。
そういう事情で、返事を留保していたのですが、数年後、この話は立ち消えになりました。私の方に過失があったわけではなく、師ご自身も考えておられなかった、結婚をされたからです。

それはともかく、
『じゃあ、なぜ××専務のような偉い人と知り合いなのよ』
ママの詮索は留まる事がありませんでした。
私は、仕方なく、
『私が大阪でお世話になっている方の知人です。たまたま三人で食事をすることになったので、ついでに土地の件を話してみたのです』
と、少し語調を強めて言いました。暗にこれ以上の詮索はするな、との意を込めたのです。
さすがに、ママも客商売をしている身ですから、敏感に感じ取ったようで、
『分かったわ。じゃあ、今晩7時にお店に来てくれない?』
と、話題を変えました。
『今晩?何か・・・・』
『ささやかなお祝いをしたいの。必ず来てね』
ママは、問答無用といった体で、私の返事も聞かずに帰って行きました。

マドンナ・大学編・その3

当時、大学の正門を出てすぐの右手に、閉鎖された食堂がありました。歴史は古く、おそらくかつては学生相手の安価な食堂として繁盛していたのでしょう。ところが、大学側が自前の学生食堂の設備を拡充したため、徐々に需要が減り、とうとう不渡り手形を出し、倒産したのです。

そして、50坪の敷地は2分割され売りに出されていたのです。いや正確に言えば、債権者である『○○庶民信用組合』が、事前に得意先に打診し、買い手はすでに決まっていました。

『その土地が何とかならないか・・・・』
というのが、喫茶店・Gのママから付き付けられた難題でした。
経営者としてみれば、その一等地は喉から手が出るほど欲しかったに違いありません。今の路地裏の辺鄙な場所でさえ、それなりに繁盛しているのですから、表通りに店を構えられれば・・・・と皮算用するのは人の情というものでしょう。

しかし話によれば、すでに仮契約まで済んでいるとのことで、手の打ちようが無いのは明らかでした。いったい、ママは何を思って私に相談したのでしょうか。前回受けた相談は、別に法学部の学生でなくても、一般常識に毛の生えた程度の事柄でした。

『ママは俺を試したのだろうか?それとも、何かを嗅ぎ付けたのか?』
私は疑心暗鬼に陥りながら、
『仮契約をした人より、多額の預金をすれば何とかなるかもしれません』
と、気休めを言うのが精一杯でした。
金融会社の特性として、○○庶民信用組合が打診したのは、自社の上得意先であることは間違いなく、そうであれば、その得意先を上回る預金をすれば、可能性があるかもしれないと思ったのです。

しかし、仮契約した者がどの程度得意先なのか分かりませんし、仮契約を引っくり返すには、その何倍の預金をすれば良いのかも分かりません。ママの資産を知るはずも無く、いや、そもそもそのようなことが可能なのかどうかさえも分からないという、まるで雲を掴むような提言でした。

私は心の中に、
『師に相談すれば、何とかなるかもしれない』
との思いを抱いていましたが、そうまでしてママの力になる義理はありません。私は適当に慰めを言って帰りました。

さて、数日後だったと思います。
師の許に来客があり、用件が済んだ後、外で飲食となったのですが、私もご相伴に預かることになり、梅田に出ました。
北区・西天満の料亭『芝苑』で食事をし、指呼の間である北新地に繰り出しました。
ちなみに、師に同伴することが多かった私は、学生の分際で高級料亭や京都の御茶屋、高級クラブに頻繁に出入りすることができました。

その頃、師の許には数多の来客がありましたが、師は名前を紹介して下さるだけで、社会的地位や肩書きなどは一切口にされませんでした。
酒の席は『無礼講』となさりたかったのだと思います。
師の意を汲んだ私も、相手の職業などを聞くという野暮なことはしませんでしたので、相手が進んで名詞を差し出す以外は、詳しい素性も知らないままの談笑となりました。

このときの来客とも初対面でしたので、料亭までは堅苦しい話題に終始していたのですが、
師との話の内容から、銀行員だということだけはわかりました。
そして、クラブに河岸を変えて、ようやく和んだ雰囲気になった機を捉えて、私は喫茶店・Gのママの件をその方に相談しました。同じ金融機関の社員であれば、何か裏技的なアドバイスがもらえるかもしれないと考えたからです。

すると、一般的な事例として、匿名で相談した私に、実名を明かして欲しいと要望されたのです。私は、隠す必要もないないと思ったので、言われるがまま実名を明かしました。
その方は、
『では、私の方で調べてみましょう』
と言って下さり、その場はそれで終りとなりました。

マドンナ・大学編・その2

およそ、客商売が成り立つ場所ではないところで、人気を博しているということは、とりもなおさず、居候・Yが興奮気味に言った、
『もの凄く可愛い女性』
というのは、まんざら嘘でもないことの証明であり、さすがの私も少なからず興味を持ちました。
加えて、両親にとても大切に育てられた、いわゆる『箱入り娘』らしく、客商売を手伝っているのにも拘らず、『すれた』ところが全く無いのだそうです。

また、大阪・梅田辺りを歩いていると、毎回必ず声を掛けられるというのです。ナンパではありません。芸能事務所のスカウトなのだそうです。東京の渋谷や原宿なら分かるのですが、大阪でもアイドルをスカウティングするのだろうか、と思いながら、居候・Yに続いて店の中に入りました。

すぐ目に入ったのが、カウンターの向こうにいた二人の女性でした。一人は中年の女性で、彼女がママだと分かりました。そしてもう一人の若い女性は、とても可愛い子で、今のタレントで言いますと、報道ステーションのスポーツコーナーを担当としている『宇賀なつみ』に良く似ていました。(彼女はアナウンサーですが・・・・)
ただ、何となく私は、
『この女性ではないな』
と思いました。居候・Yから聞いていたイメージと合致しなかったからです。

店は大きくはありませんでした。
カウンターに5席と、四人掛けテーブルが2つ、二人掛けテーブルが3つだったと記憶しています。
私たちは、カウンター席に座ることにしたのですが、私が一番左端の椅子に座ろうとした瞬間、若い女性が、
『あっ』
と、小さな悲鳴のような声を上げました。と同時に、私は背に冷たい視線を感じました。
どうらや特別な席らしく、私などが、つまり初めて訪れたような奴が座る席ではなかったらしいのです。

私は、何となく感付きましたが、
『二度と来ることはない』
と思っていましたから、気兼ねすることなくその椅子に座りました。居候・Yはコーヒーを、私はママが薦めたミックスジュースを注文しました。
ママが材料の果物をカットしはじめたときでした。ツカツカ、という足音がしたかと思うと、カウンターの奥の扉が開いて、若い女性が入って来ました。
転瞬、一閃の涼風が吹き抜けたような、店内のルックスが上がったような、辺りが実にさわやかで華やかな雰囲気に包まれました。

『あっ』
と、私は思わず息を呑みました。幼児の頃に出会い、小学校の高学年から思いを寄せ、高校時代に交際をしていたM・H、大親友・Yとの仲を取り持った名家のお嬢様、M・H(偶然、イニシャルが同じでした)と、身近に美女を見てきましたが、目の前の彼女は二人とはちょっと異質な感じでした。

美人ということで言えば、二人の方が整った顔立ちの美人でしたが、目の前の彼女は、非常に愛くるしく、涼やかな透明感がありました。顔立ちはちょっと違いますが、全体の雰囲気は女優の『本仮屋ユイカ』の感じでした。

『これは、男は参るなあ』
率直な私の感想でした。居候・Yが、躍起になって口説こうとしているのも理解できました。そして、居候・Yは彼女に断られたため、宇賀なつみ似の彼女と私を含めて、グループ交際から始め、そのうちに活路を見出そうと画策しているのだということも察しました。

『私がミックスジュースを作ろうかな』
彼女はそう言って、ママと作業を交代しました。そのとき、再び背中に鋭い視線を感じたことから、よほどの常連でないと、彼女がミックスジュースを作ることはないのだ、ということも察せられました。

彼女がミックスジュースを作っている間に、居候・Yがそれぞれを紹介し、彼女の名はK・U、もう一人の若い女性は、姓は忘れましたが、名はT子とわかりました。K・Uとママは母娘です。

初めは、特にどうこうという会話もなかったのですが、ふと居候・Yが、私が大金を持っていると、口を滑らしました。
まあ、大学生の分際で、風呂、トイレ付きの2DK、しかも新築に住んでいるのですから、居候・Yが話さなくても、いずれその話題になったでしょうが、そこからママが私の素性に興味を持ち、あれやこれやと問い質すような感じになりました。

もう二度と来ない、という私の気持ちに変化はなく、ただ鬱陶しいだけの質問でしたから、適当に答えていました。むろん、私が高僧である師に師事していることなど、億尾にも出しませんでした。

その場は、適当に誤魔化して終わったのですが、数日後、突然ママから店に来て欲しいという電話がありました。もちろん、私は電話番号を教えていませんでしたが、居候・Yが勝手に教えていたのです。居候・Yという男は、そういう奴で、たとえママから聞かれたとしても、所有者である私に伺いを立ててから答えるのが筋で、彼はそういう道理も弁えぬ男でした。

ともかく、私が指定された時間に赴くと、要件とは法学部の学生である私を見込んだ法律相談でした。
詳細は忘れましたが、確か敷地の境界線に関するトラブルだったと記憶しています。それほど、難解な事案ではなく、簡単にアドバイスをし、それが役になったのかどうかは分かりませんが、無事解決したようでした。

当然、それ以降私が店に出向くことはありませんでした。ですが、再びママからの電話があり、もう一度相談に乗って欲しいというのです。
正直に言って、私も忙しい身でしたし、厄介な相談をされると面倒だと思い、何度も断ったのですが、受話器越しにママの必死の様子が伝わり、とうとう再び店を訪れてしまいました。

すると、悪い予感が的中しました。前回とは比べようも無い難題を持ち掛けられたのです。

マドンナ・大学編・その1

私は大学入学と同時に、師の寺院に寄宿していましたが、都合により離れた期間があったことは、以前に書きました。理由は、檀家や知人からのクレームだったのですが、実は2度あったのです。

マドンナと出会ったのは、その2度目のときでした。当時、私は数百万円という金を所有していましたので、部屋は大学前の、本通りにある喫茶店の2階に借りました。大学まで、徒歩2分という便利な場所でした。本来、その喫茶店の経営者が借りて住むように出来ていたのですが、喫茶店のオーナーはすでに家を購入していたので、空き家となっていたのです。

2DK、風呂、トイレ付きで、当時の相場で家賃は、月額5万5千円でした。六畳二間でしたので、十分な広さだったのですが、そこにある居候が転がり込んできたのです。
その男、M・Yはある事情があって、親に勘当され、金銭的な援助が期待できないので、私に縋り付いてきたのです。

私の方も、多分3,4ヶ月、長くても半年のことだと思っていましたので、仕方なく居候を認めたのですが、それがもう、アルバイトはしていたようですが、貧乏極まりなかったので、二人でいるときは全て私の奢りでした。

喫茶店、ゲームセンター、ボーリング、食事等々、とにかく私にたかるのです。まるで、ヒモ状態でした。(私にその気はありません)
M・Yは非常にハンサムな男でした。以前書いた大親友・Aと比べても遜色がなかったほどです。あらためて思い出してみると、私の周りには美男美女が多かったように思います。

ともかく、ある日そのM・Yが私に、
『安岡、もの凄い可愛い女性を見つけた。お前も一緒に見に行かないか』
と、仰々しく言うのです。
当時、私は女性に興味がありませんでした。そう言うと、変な風に誤解されそうですが、そうではなく、毎朝5時に起きて、師の寺院へ赴き、庭掃除など一切合財の雑用を済ませてから、大学の授業(語学とゼミのみですが)に出て、授業が終わると、また師の寺院に戻り、薫陶を受けるといった生活をしていたものですから、女性とデートをする暇がなかったのです。

いや、暇ならどうにでも作り出すことが出来たでしょうが、少々大袈裟に言えば、
『師の下で生活をする大学の4年間、己の精進次第で先の人生が決まる』
と、真剣に考えていましたので、女性に現を抜かすことなど言語道断だったのです。

ですから、
『興味ない』
と、けんもほろろに断りました。
ところが、M・Yはしつこく誘うものですから、一度だけと思い、誘いに応じたのでした。

その喫茶店・Gは、大学本通りから1本北の筋の、住宅が建ち並んだ、どん突きにありました。私の住んでいる場所からすぐ裏手になるのですが、なにせ住宅街ですので、とても喫茶店があるとは思えない場所でした。

『こんな辺鄙なところに喫茶店が?』
M・Yの話によると、大変に流行っている店だと言うことなので、彼の言う『可愛い女性』というのは、よほどの女性なのだろうと想像しました。

マドンナ・その5

学校に引き返し、冷静さを取り戻した私は、急に気恥ずかしさを覚えていました。
こうなると、恋には奥手だった私は、とうてい直接告白することなど出来なくなり、結局長文の手紙を書きました。

このブログでも書きましたように、5歳のときの出来事から、小学5年生の再会(私が見ただけですが・・・・)、そして中学時代の失恋、そしてこの手紙を書くきっかけとなった、女子高生からの告白・・・・私は、ありのままを正直に綴りました。

すると、同情したのでしょうね、交際OKの返事が届きました。
私にとっては、初恋の成就ということになるのでしょうか。それはそれは、楽しかったですね。

お互いに部活動をしていなかったので、放課後待ち合わせをし、2時間ぐらいデートをしてから帰宅していました。
しかし卒業後、彼女は都会へ大学進学し、私は浪人生活、結局長距離恋愛となったため、自然消滅しました。

さて、浪人生活の夏でした。私は、ときどき街の県立図書館へ行って勉強していました。
私の病気、つまり引き籠もりですが、正確に言うと、『鬱病』でした。『鬱』の状態と『普通』の状態が定期的に入れ替わるのです。その『鬱』の状態のとき、引き籠もるわけです。
病院で診察を受けましたが、軽い症状だということで、抗鬱剤などの薬は服用していませんでした。

原因は、学校の成績が悪かったことが影響していたようです。
『天才とキチ○イは紙一重』の題のとき書きましたが、私は一年生のとき、学級委員長をしていたように、入学試験の成績は良かったようです。ところが、一年生の後半頃から、授業について行けなくなり、成績は急降下、順位は最後尾から数えた方が早くなって行きました。そういったことが心理的圧迫となっていたようです。

さて、この図書館でちょっとしたハプニングがありました。
ある日、私がいつもの場所で勉強していると、私の肩を叩き、
『安岡君』
と声を掛けてきた者がいたのです。女性の声でした。
驚いて振り向くと、そこにはあの文化祭で私に告白した彼女が立っていたのです。
『え?』
驚きのあまり、私には言葉がありません。ともかく、図書館では他の人の邪魔になりますので、彼女を喫茶店に誘い、ゆっくり話をしました。
それによると、どうやら彼女は地元の、つまりこの街の国立大学に合格し、夏休みの間、この図書館に通って勉強しているということでした。

私は、あの文化祭で彼女の告白を断った以降の経緯について正直に話しました。彼女も付き合っている男性はいないということでした。
もし、これが恋愛小説であれば、ここから二人の間に新たな恋が始まる展開なのでしょうが、現実はそう上手く行きません。
その後も、何度かその図書館で出会い、お茶を一緒し、様々な話をしましたが、ついに恋に発展することはありませんでした。

以上、このシリーズは了とします。
今後は、マドンナ・大学編を予定しています。

 

 

世界大学ランキングとソルボンヌ大学

先日、バラエティ番組を見ていましたら、世界大学ランキングを発表していて、それによると、

1位:ケンブリッジ大学(英国)
2位:ハーバード大学(米国)
2位:マサチューセッツ工科大学(米国)

となっていました。
まあ、この手のランキングの選出方法には様々な問題もあり、また考察する機関によって、重点項目が異なるため、順位には変動があるようです。

我が国最高学府である東京大学は、ある研究機関では8位、また別の機関では30位と、その評価の違いに大きな差があるようですので、どれほど信憑性があるかは疑問です。
また、主な選考項目には、ノーベル賞、フランクリン・メダル、ボルツマン・メダル、ディラック賞、キッピング賞等の受賞者数や、研究論文の発表数などもあるようですが、論文は基本的に英語となりますので、日本の学者による論文発表は極端に少なく、いかに東大といえどもランクが下がるようです。

それはともかく、こういう世界の有名大学の名が出ると、私はいつもフランスの『ソルボンヌ大学』を思い出します。
もっとも、実際は『ソルボンヌ』という名の大学は存在しません。今あるのは『パリ大学』でソルボンヌというのは、12世紀の司祭の名が由来で、いわば旧称あるいは代名詞です。パリ大学の起源はその12世紀まで遡り、オックスフォード大学などと共に欧州最古の部類に入る大学で、創設期は、神学・法学・医学の三つの上級学部で成り立っていました。

なぜ私がソルボンヌ大学の名を思い出すかと言いますと、実は留学しないかという話があったからです。
私は法学部に在籍していましたので、当然法学部への留学だったのですが、今はいざしらず、当時は、
『ソルボンヌ大学の法学部は世界一』
との評価でしたので、私としては逡巡せざるを得ませんでした。

というのも、私が通った大学は関西でもそこそこ有名な私立大学で、前身は法律学校だったということもあり、法学部自体のレベルは高かったのですが、私は出席を取る『語学とゼミ』以外は、全く講義を受けていませんでしたので、成績優秀という訳ではなかったのです。
逆に、それでも単位を落とすこともなかったので、日本の大学のレベルや、推して知るべし、というところなのですが、とにかく『全優』というわけではありませんので、世界一のソルボンヌ大学・法学部への留学など、おこがましいことでした。
ただ、たとえばソルボンヌ大学といえども、日本の東大のように秀才ばかりが集まっているというわけでもないので、留学自体は、それほど難しいことではなかったのかもしれませんが・・・・。

さて、この話は私の師からありました。
師は、このソルボンヌ大学・法学部の博士号を取得されていました。宗教家であり、専攻が中国の思想、哲学を中心とした、いわば文学部でありながら、なぜ法学部の博士号を取得されたかと言いますと、それは私が師と出会う前のことでした。

国名は忘れましたが、師は欧州で行われたある世界学術会議に、日本代表の一員として出席され、基調講演をされたそうです。師が日本団の一員に選ばれたのは、安岡先生の推薦があってのことです。

その基調講演は非常に好評だったらしく、各国の関係者から自国での講演を依頼された師は、予定を変更して、欧州各国を講演して回られたそうです。その中の一つに、『ソルボンヌ大学』があったのです。
その際、経緯は分かりませんが、当時の法学部長と大変懇意になり、酒宴の席で同氏から、
『我が大学には、法律に関して全世界、全年代の文献があるが、唯一中国のある時代の文献だけ無い』
との話を受けた師は、たまたま所有していたその文献を寄贈されたということです。
学部長は大いに感謝し、大学側に働き掛けて、
『名誉博士号』
の贈呈となったのです。
その後、学部長は大学長になりました。
私は、その学長の推薦という形を取って留学する予定になっていたのです。しかも、寄宿先はその学長の自宅ということまで決まっていました。

しかし、この話は実現しませんでした。
私が大学4回生の暮れ、突如父が、
『食道静脈瘤破裂』
で倒れ、生死の境をさまよったのです。幸い、一命は取り留めましたが、この病気は肝機能の低下が原因でしたので、いつまた再発するか分からず、その際は命の保証がないということでした。実際、そのときは運良く助かりましたが、命を落とすことも多い病気です。

あの石原裕次郎は、
『動脈瘤破裂』
でしたから、父よりさらに命を落とす危険が高かったわけですが、静脈といえども、有名人が何人も亡くなっていると思います。
ともかく、父がそうなってしまってはどうにもなりません。留学は2年なのか4年になるのかも分かりませんし、そうなると父の死に目に会えないかもしれないのです。

私は、留学の件を両親に話していませんでした。正月の帰省のときに伝えるつもりだったのです。
これが運命を分けたのかもしれませんね。もし、事前に両親の耳に入れていれば、きっと留学を勧めていたことでしょう。私は熟慮の末、一存で留学の話を断りました。
こう言うと、なんだか親想いの息子のように写りますが、実は学力不足の懸念とは別の、もう一つの重大な理由があって、私は留学の勧めがあって以来、ずっと受けるかどうか迷い、悩み続けていたのです。
父の急病は、そのような私に留学辞退を決断させる決定的な要因となったわけですから、案外天の声だったのかもしれません。

酒と涙と男と女


若くして亡くなった河島英五の代表曲です。


良い曲ですね。今はあまり歌わなくなりましたが、私にはとても思い入れのある曲で、以前は飲み屋へ行くと必ず歌っていました。


私は今でこそ、カラオケ大好きで、歌唱力もまあまあだと、勝手に自負していますが、実は社会人になりたての頃は、人前で歌を歌うことが、苦手と言うか苦痛以外の何者でもありませんでした。


音痴だったのです。今の私を知る人からすれば、とても信じられないことでしょう。

 


それが、どうにか人前で歌うことに馴れ、歌唱力もそれなりになるきっかけとなったのが、大阪・北新地のラウンジ『辰巳』のママとの出会いでした。

 


私が初めて辰巳を訪れたのは、入社早々、新人歓迎会の二次会だったと思います。上司に連れられてのことでした。私の他にも同伴者がいて、総勢5名だったと思います。


北新地と言っても、『辰巳』は小さなラウンジで、カウンターが5席と、ボックス席が3つだったと記憶しています。ママとホステス2人という小さなお店でした。

 


当然のごとく、カラオケが始まり、上司を含め他の者は次々と持ち歌?を披露したのですが、それまでカラオケに行ったことも、人前で歌を歌ったこともない私は、歌える歌が無く選曲に躊躇っていました。

 


しかし、皆が2曲目、3曲目と歌って行くうち、しだいに私への催促が強まって行きました。こうなると、どうしても歌わなければならない雰囲気となり、とうとう覚悟を決めた私は、この『酒と涙と男と女』を歌ったのです。


この歌は、ラジオなどで耳にしていて、好きな歌だったのですが、音痴でしたので、上手く歌えるはずがありません。

 


ママが私に話し掛けてきたのは、御開きになったときでした。私たちを見送るため、一緒に店の外へ出たママが、こう私に耳打ちしたのです。


『明日、19時に一人でお店にいらっしゃい』

 


私にはどういう意味か分かりませんでしたが、ママがもう一度、


『必ずいらっしゃいよ』


と、念を押したので、翌日言われた時刻にお店に出向いたのです。

 


お店のドアを開けると、ママはすでに掃除を終え、開店の準備は終わっていました。


そして、カラオケをセットすると、ママは、


『さあ、開店まで練習しなさい』


と言って、『酒と涙と男と女』を何度も何度も掛けてくれ、歌唱指導までしてくれたのです。

 


そういうことが、断続的に十回ぐらいあったと思います。


お陰さまで、どうにか『酒と涙と男と女』がそれなりに歌えるようになり、そうなると現金なもので、次の曲、次の曲というように、新たな曲に色気が出ました。曲をマスターすることに満足感も覚えるようになりました。


その後、私が急にマイクを持つことに積極的になり、且つ歌が上手くなったことに、同僚たちは目を丸くしていたのを思い出します。

 


それから、一年半後だったと思います。突然、辰巳のホステスから、ママが病気で入院したとの連絡がありました。


当然、見舞おうと入院先を訪ねましたが、ママの希望で教えられないとのことでした。


そして、さらに半年後、今度はママの訃報が届きました。彼女は癌だったのです。


あ、遅くなりましたが、ママは七十歳ぐらいのお婆さんでした。

 


ともかく、上司は常連だったようですが、初対面の私に開店までの一時間、無料でカラオケを開放してくれ、そのうえ喉が渇いただろうと、ビールも1本サービスしてくれたママは、いったいどのような了見だったのか。亡くなってしまった以上、知る術もありません。私は、ママの真意を聞くことも出来ないままになってしまいました。

 


しかも、気を使った私が、


『このまま残って客になる』


と申し出ても、ママは笑って拒否しました。安月給だと知っていたからでしょう。


稀に、そのまま店に残ることを了承しても、料金は頑として受け取りませんでした。

 


むろん、ママが入院するまでには、何度か店にも行きましたが、そのときも正規の料金は取っていなかったと思います。


私は、出世払いを心に決めていましたし、事実それから五年後の一時期、北新地の店を河岸とするようになりましたが、時すでに遅し、受けた恩を返すことは適いませんでした。

 


今では、北新地に足を踏み入れることも無くなりましたが、足繁く北新地に通っていた頃、辰巳があったビルの前に立つと、当時を思い出し、心の中で頭を垂れていました。

 

 


天才とキチ○イは紙一重

俗に、良くそう言われていますが、私の高校一年生のときの担任が、まさにそのような人でした。もっとも、『キチ○イ』というのは言い過ぎで、極端な『変わり者』と言ったところでしょうか。

 

藤原先生と言って、代々地元でも有名な由緒正しき古社の神官でもありました。専攻は漢文学で、その分野では日本でも五指に数えられるほどの高名な学者で、長らくNHKの『市民大学講座?』のような番組で漢文を担当されていました。

神官職を継ぐ必要がなければ、大学で教鞭をとっておられたことでしょう。

 

私が通った高校は、県下一の名門進学校ですが、特に国語はこの藤原先生がおられたこともあってか、古文、現代国語にも優秀な先生方が揃い、当時全国屈指の教諭陣と称賛されていました。その証拠?ではありませんが、あの毎年東大進学率・全国一位を誇る灘高校から試験問題の作成を依頼されているほどでした。

 

以前、三年生の二学期からは、ひたすら学校側が作成した予想問題集を解く授業を受けていたと言いましたが、特に古文と漢文は完璧で、私が進学した大学の受験問題は、問題文から設問まで、100%当たっていました。

 

さて、一年生のときの担任だったと言いましたが、実は私が学級委員長をしており、この藤原先生には苦労させられたものでした。

後でわかったことですが、担任の職務は不適格とされ、藤原先生は長らく担任の職についておられなかったということでした。

 

それが、よりによって私が学級委員長を務める年に限って、久々に復職されたのです。

なにが苦労だったかと言いますと、とにかく全く担任の仕事をされないのです。

朝礼、終礼、ホームルーム・・・・と、全て私に任されました。

まず、朝礼の前に私が職員室へ出向き(先生は個室でした)、連絡事項を伺って、クラスの皆に伝えるのです、終礼、ホームルームしかりです。

 

本人は何をされているのかと言うと、それが何時出向いても、飲酒でした。授業以外は飲酒されていたのだと思います。机の中には、ボトルが入っていて、常時アルコールの臭いが漂っていました。

おそらく、アルコール依存症だったのではないかと思います。

それでも、学校側が解雇しなかったのですから、藤原先生の学校に対する貢献は多大なものがあったのだと推察されます。

むろん、40年近くも昔のことであり、現在であれば、即時軽くて休職か停職、重くて免職になるでしょう。

 

しかし、苦労をさせられたのにも拘らず、私が先生を恨む?ことがなかったのは、先生の授業のもの凄さでした。酔っぱらっているとはいえ、一旦授業となれば、これはもう別格で、特に漢詩などは、中国語と日本語で朗々と読まれていました。目を瞑って声だけを聞いていると、いつの間にか、すっかりその時代、その風景に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほどで、私が言うのもなんですが、先生の授業は非常に、

『値打ち』

がありました。

 

加えて、昼休みには先生の個室で、酒のつまみをいただきながら雑談をするなど、一人だけ親しくさせていただきました。(飲酒はしていません)

16歳の若さで、藤原先生のようなその分野の一流人と、親密な関係性を学習したことが、後々の師との接し方に参考になったと思っています。

 

マドンナ・その4

中学3年生の夏の、生徒会合同会議で他校の女生徒と知り合い、2年後の秋、その彼女から告白を受けた私は、無慈悲にも即断で断りました。

彼女の勇気ある告白が、脳裡の片隅に宿っていたある少女の笑顔を蘇らせたからです。

 

以前、私の祖父は大のアンチ巨人で、阪神ファンだと言いましたが、野球全般が大好きで、高校野球・甲子園大会などは、1日中テレビの前に陣取り、スコアブックを付けながら観戦していました。

スコアブックといっても、本格的なものではなく、得点経過と攻撃内容、所感を記載したものでしたが・・・・。

高校野球は甲子園大会だけでなく、地方予選から注目するほどで、私を連れて球場観戦もしていました。

 

その女の子を初めて見たのは、私がまだ5歳のときでした。

その日、祖父に連れられて、地方予選を観戦しに街へ出掛けました。バスに乗って行くのですが、その頃のバスは昇降口が中央の一ケ所だけで、運転手の横は座席がありました。当然、私はいつもその見晴らしの良い特等席を陣取っていました。

 

バスが二つ隣村の停留所で止まったときでした。

側道から、私と同じ年頃の子供たち4人が目の前を横切りました。3人の男の子に混じって女の子が一人だけいたのですが、彼女が一瞬、私の方を振り返り、にこっと笑ったのです。

 

その瞬間、私はそれこそキューピットに胸を矢で射られたように、魅入られてしまいました。可愛い女の子でした。私が通っていた幼稚園にはいない可愛いらしい女の子でした。

 

『フランス人形だ・・・・』

 

とても不思議なのですが、その後しばらくの間、私の脳に刻まれた女の子の残像は金髪だったのです。フラン人形など見たこともなかったと思いますが、なぜかその思いが強く残ったのでした。

私が、祖父から教えてもらった村の名も同時に刻み込んだのは言うまでもありません。

とはいえ、なにせ5歳児のことですから、半年もすればすっかり忘れていたと思います。

 

彼女の残像が、蘇ったのは小学校5年生の秋でした。小学校対抗のポートボール大会に、5年生ながら選抜されて大会に臨んでいたのですが、会場の中に、一際は輝きを放つ女生徒がいたのです。

私は彼女の顔を見たとき、6年前のあの女の子だと確信しました。6年の月日が流れており、顔立ちは変わっていましたが、確かに彼女だと確信しました。あの幼い女の子は、とても美しく成長していました。

私は、出来るだけ彼女の情報を集め、憧れていた大親友・Aと同じ小学校で、名前はMH、そして彼女も5年生だということを知りました。

 

『1年半後には、彼女と同じ中学校に通うことになる』

そのときから、私の胸は夢と希望に満ち溢れていったのです。

 

満を持して入学した私でしたが、思わぬ事件が障害となりました。例の、入学早々の授業中の暴行事件です。この行為は、男子生徒の間では、何というか畏敬の念を持って一目置かれることになったのですが、女子生徒の間では、『怖い』という印象を植え付けてしまっていたのでした。

彼女も例外でなく、たとえば廊下ですれ違うときなど、目を合わさぬようにするのです。

その上、

『彼女は誰々が好きらしい・・・・』

という噂話も耳にした私は、絶望にうちのめされました。

初恋の終りでした。

私には子供がいませんので、今の中学生はどうか知りませんが、40年も昔の田舎の中学生など、自分で言うのもなんですが、そのように初心なものでした。

 

それが、思わぬ告白を受けて、フラッシュバックのようにMHの顔が過ぎり、彼女への想いが込み上げてきたのです。

『このままでは、後悔する。駄目で元々、MHに告白しよう』

 

青春ですね。

私にも、あのような迸る情熱があったのだと思うと、なつかしいやら気恥ずかしいやら・・・・。

ともかく、熱い想いを押さえ切れない私は、すぐさま自転車通学の友人に頼み込み、自転車を借りてHMが通う高校を目指したのです。

彼女の高校も文化祭を開催していることを知っていましたので、勢いに任せて告白してしまおうと思ったのでした。

彼女が通う高校は、5キロほど南に下ったところにあり、私の高校に比べると歴史は浅いものの、近年、学力その他で迫って来ている高校でした。いわば、ライバル校で、毎年全スポーツ部の対抗戦も行われていました。

 

まるで、熱に犯されたように夢中で彼女の高校に向かった私でしたが、ちょうど中間点となる湖に掛かった大橋のたもとで、まだクラスの仕事が残っていることに気付きました。

私は無断で外に出たのです。もし、戻るのが遅くなれば、クラスメートに迷惑が掛かるばかりか、心配を掛けることにもなります。場合によっては、騒動にだってなりかねません。

何より、いかに文化祭とはいえ、無断で校内を出ることは校則違反でした。晩秋の冷たい潮風に当たり冷静になった私は、そこで引き返すこととし、告白は後日にしようと決めたのでした。

 

 

 

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