日本仏教界の凋落:その1

昨日も少し言及しましたが、高野山での宗会解散の顛末は実にお粗末です。
資産運用で6億?何某かの損が出たの、他で9億?ほど黒字が出たので、トータルでは黒字だの・・・・どこかの企業の決算報告でしょうか?

もちろん、高野山とて人間の集まりですから、そこには日々の生活があり、経済があるのは当然ですが、資産運用?とはいったい・・・・よけいな金が集まると仏教の聖地でもこういう思考になるのでしょうね。いったい、何のための修行なのでしょう。

資産運用で儲けた金は、たとえば塔堂などの修改築費に充当するつもりだったなどと抗弁するのでしょうが、宗教人としては本末転倒の思考です。

もし、金に窮したならば、広く国民、信者に浄財を募るべきで、それで足りれば良し、足りなければ、自分たちの信心修練不足を恥じて、本来の姿に戻る努力をすべきと考えます。
宗教の本義本質は、決して塔堂伽藍などではなく、僧侶の手に委ねられていることを忘れてはなりません。

そういえば、昨年でしたか、金閣寺の住職が揮毫料・数億円を隠匿していた事件がありましたが、これは私腹を肥やしていたわけですから、さらに劣悪です。(高野山の宗務総長らが私腹を肥やしていたかどうかは不明です)

金閣寺といえば、寺社銀座の京都にあっても、清水寺と双璧の一番の名刹です。その名刹の住職ともあろう者が、金に目がくらむとは情けないにも程があるというものです。

どうしてのこのような事態になるのでしょう。
高野山はわかりませんが、おそらく金閣寺は後継者が世襲制だからだと思います。世襲といっても自分の子孫に譲るというのではなく、後継指名ということです。(これは私の憶測ですので、事実と違えば謝罪します)
自分の気に入った人物を後継に据えるわけですから、本来後継となるに相応しい修行を積んだ、学徳に優れた人物かどうかは不明と言うことになります。

私の憶測が正しければ、実に嘆かわしいことですし、憶測が外れていれば、つまり正式な選挙、または人物を評価した上での後継指名であったならば、それはそれで『それでも尚この体たらくか・・・・』ということになり、人材不足は深刻度を増します。

さて、小説:『黒い聖域』は、私が大学時代に書生をしていたある宗派の高僧がモデルになっています。私の恩師ということになりますが、後年師は京都のある本山の貫主を巡る権力闘争に巻き込まれます。本来、師が次期貫主となるべきところ、不手際から横槍が入ってしまったのです。

私は師の傍らにいた者として、現在の僧侶たちのさまざまな『欲』というものを垣間見てきました。ただ、恩師との関係もあり、私はそのことは堅く秘匿し、墓場まで持って行こうと心に決めていましたが、数年前ふと『このままで師の魂は慰められるのだろうか』と疑問に思ったのです。

師は、その際の気苦労から病に倒れ、帰らぬ人となりました。私は師への鎮魂歌として黒い聖域』を執筆せねばと思い直したのです。


第一巻:本妙寺の変


黒い聖域第一巻本妙寺の変


黒い聖域第二巻裏切りの影

第1巻は無料です。


「黒い聖域」ダウンロードページ



 


師の薫陶

師から受けた薫陶と言っても、たとえば『論語』や『中庸』などの古書の講義を受けるというような、取り立てて『これだ!』というのはありませんでした。むろん、師は自身の宗派の教義を押し付けるなど、決して為さいませんでしたから、専ら雑巾掛け、トイレ掃除、庭の掃除、洗濯などの雑用をこなしていました。
とは言え、いずれも私にとっては生まれて初めてのことばかりでしたから、最初は勝手が分からず戸惑ったものでした。師は、たとえ私が失敗しても、怒られるということはなく、懇切丁寧にやり方を教えて下さいました。

師は大変に忙しい方でしたので、大阪に居られることは、一年のうちの1/3程度で、一日中自坊におられたのは、仏教の年中行事のときぐらいでした。ちなみに、師はいわゆる『檀家』をお持ちではありませんでしたので、葬儀、法要等に縛られることはなかったようです。

自坊に居られたときの食事は、外食が殆どで、出前を取ることも滅多にありませんでした。四年間の寄宿生活の中で(離れた期間も含める)、私が食事の用意をしたのは、ほんの数回でした。

特別な講義などは受けなかったのですが、在院のときは必ずと言って良いほど、訪問客があり、その折には用件が済むと、私も酒の席に同席させてもらいましたので、その際の会話は良く聞いていました。経済人が多かったのですが、政治家や文化人、ジャーナリストなどもいましたので、様々な世界を垣間見ることが出来たと思います。

さて、そうは言いながらも、薫陶と言うか、試練を受けたことが一度だけありました。
私が、師の寺院に寄宿してからしばらくして、一旦師の許を離れたときのことでした。
理由は、以前にも述べましたが、私を寄宿させたことで、信者や知人から度重なる抗議を受けておられたからです。
ともかく、その間は早朝、掃除のために寺院に通い、一旦大学に戻って講義を受け、師の在院のときに限り、再び寺院に戻るという生活をしていました。

そのようなある日、奇妙なことが起こりました。
その日、私に東京へ出向いているはずの師から、すぐに寺院へ来るようにと連絡が入ったのです。急遽、予定を変更して、指定された時間に駆け付けたのですが、玄関の鍵が閉まっており、不在の様子なのです。寄宿時には鍵を預かっていましたが、外に出たときに返していたのです。

疑問に思った私は、公衆電話から電話をしてみましたが、繋がりませんでした。仕方なく、近所の喫茶店で三十分ほど時間を潰し、もう一度訪ねてみましたが、やはり不在でした。もちろん電話も繋がりません。

私はまた喫茶店へ行きました。
このようなことを三度繰り返しましたが、状況の変化がないことに業を煮やした私は、師の予定が変わったのだろう、と勝手に判断し、アパートに帰りました。
翌日、師に再び呼び出され、寺院に出向いた私は、烈火の如き叱責を受けました。実は、私は師に試されていたのです。呼び出されたものの、不在のときどのような行動を取るのか、観察されていたのでした。

師は、後に首相になった竹下登氏がまだ官房長官の時代、師匠の田中角栄氏の私邸に呼ばれると、すでに政府の要人の身であるにも拘わらず、新人の頃と変わりなく、進んで雑巾掛けをしたという逸話を例に挙げられ、不在と分かったとき、たとえ掃除をしたばかりであっても、もう一度草取りをするとか、水を撒くとかすらせず、そのまま立ち去った私を厳しく戒められたのでした。

私は泣きました。取留めもなく涙が出ました。可愛がってくれた祖父の死に際にも、父の死に臨んでも、一粒の涙も流さなかった私が大泣きしたのです。温厚な師に、初めて叱責されたということもありましたが、師の許での半年余りの書生修行はいったい何だったのか。師から受けたはずの様々な教えの意味を、全く理解していなかった自分が情けなくて涙が出たのでした。

それを機に、私がいっそう気持ちを込めて、雑用をこなすようになったのは言うまでもありません。

テロとのニア遭遇

今から二十年近くも昔、私は『スリランカ』に旅行したことがあります。年配の方には『セイロン』と言った方が聞きなれているでしょうか。

遊びの旅行ではなく、実は師の所属する宗派の法主が、スリランカ政府より国賓待遇での招待を受けたため、法主の代理で外遊した総務に、師も随行することになり、ついでに私も同行したというわけなのです。
なぜ、国賓として招待されたかと言いますと、宗派がスリランカの教育発展に寄与したからです。具体的に言いますと、幾つかの小中一貫の教育施設を建設、寄贈したのです。その御礼のため、招待されたということなのです。

師と師の関係者は、このプロジェクトに多額の資金を援助していたため、法主の計らいで随行員に選ばれたのです。
私が師に同行したように、他にも一般信者が数名参加していました。むろん、私たちは自費でしたが、行動は国賓訪問団と共にしていましたので、公式行事はもちろん、観光での移動の際には、常にパトカーの先導があり、兵士が護衛として付いていました。
自由観光した一日は、さすがに先導も護衛もありませんでしたが、我々が日本人だと分かると、とても好意的に接してくれたのを記憶しています。

歓迎パレードもあり、小学生から大人たちまで、鼓笛隊やダンスなど、130を超える様々なチームが、私たち来訪団の前を、パフォーマンスをしながら通り過ぎて行きました。
彼らは、学校の建設中の広い敷地に順次整列して行き、最後に私たちの到着を拍手で迎えてくれました。
ただ、パレードの中に、象の一団も含まれていましたので、道のあちこちに小さなバケツのような『フン(糞)』が落ちており、皆悲鳴とも笑いともつかぬ声を上げながら、避けていたのを思い出します。

宿泊ホテルは、おそらく当時のスリランカでは一番に高級だったであろう、『ヒルトン』だったのですが、毎晩そのメインホールで、いわゆる『晩餐会』や『歓迎会』のような食事会が催されました。
観光もしましたが、失礼ながら貧しい国ですので、取り立てて珍しいというものはありませんでした。
ただ一つだけ、ホテルの部屋から観た、インド洋の水平線の彼方に沈む夕陽は絶景でした。

さて、最終日には大統領に謁見する予定だったのですが、当日になると、面会場所が三度変更され、時間も二度変更されました。
謁見の後で、スリランカ政府側から説明されたのですが、この頃スリランカでは民族対立が激化しており、テロへの危機管理から大統領の行動は、トップシークレットだったのです。

テロと聞いても、そのときは、ただ、
『ああ、そうか』
と、漠然と聞き流していましたが、帰国してから半年後です。
NHKのニュースを見て、背筋が凍るような恐怖を感じました。私たちが面会した大統領が暗殺されたのです。
しかも、犯人は大統領の護衛担当という側近だというのです。つまり、私たちが面会したあのとき、同じ場所にいた可能性が高く、爆発物を身体に巻いた自爆テロだということですから、もしテロリストがあの面会時に暗殺を実行していたら、間違いなく私も巻き添えを食らって、死んでいたことでしょう。

それもさることながら、面会時の緊迫した空気を察することなく、たた不満に思った私が、どの面下げて平和ボケした日本人を叱責することができようか、と自問自答する毎日です。

最後に余談が一つ。
スリランカから帰国の途に着こうとしたときです。航空会社側なのか、旅行会社側なのかはわかりせんが、ともかく手違いがあり、客席が3つ足らないという事態が起こりました。
そこで、担当者が次の便で帰国しても良いという者を募ったのですが、誰も手を挙げなかったので、私と妻の二人が申し出ました。すると、残る一人は、私の師が手を挙げられたのです。
私たちはともかく、師は国賓ですから、担当者は大変に恐縮し、自分が代わると師を説得したのですが、師は私たち夫婦と共に帰国の途に着きたいと譲られませんでした。
結局、師と私たち夫婦は、空港近くのホテルでもう一泊することになったのですが、皆の見送りを済ませ、空港から出ようとした、まさにそのときでした。

担当者が、必死に走って来て、席が確保できたというのです。
思わぬ成り行きに、私たちが急いで飛行機に乗り込むと、何とそこはファーストクラスでした。
おそらく、航空会社はキャンセル待ちをしていたのでしょうが、無かったため、ファーストクラスを解放したのでしょう。むろん、私たちが国賓及びその随行員だということも考慮されたと思います。

経緯は経緯として、一応ファーストクラスですから、待遇は正規の料金を支払った客と同様でした。
善行はしてみるものですね。世の中は神も仏もいるということでしょうか。

天才とキチ○イは紙一重

俗に、良くそう言われていますが、私の高校一年生のときの担任が、まさにそのような人でした。もっとも、『キチ○イ』というのは言い過ぎで、極端な『変わり者』と言ったところでしょうか。

 

藤原先生と言って、代々地元でも有名な由緒正しき古社の神官でもありました。専攻は漢文学で、その分野では日本でも五指に数えられるほどの高名な学者で、長らくNHKの『市民大学講座?』のような番組で漢文を担当されていました。

神官職を継ぐ必要がなければ、大学で教鞭をとっておられたことでしょう。

 

私が通った高校は、県下一の名門進学校ですが、特に国語はこの藤原先生がおられたこともあってか、古文、現代国語にも優秀な先生方が揃い、当時全国屈指の教諭陣と称賛されていました。その証拠?ではありませんが、あの毎年東大進学率・全国一位を誇る灘高校から試験問題の作成を依頼されているほどでした。

 

以前、三年生の二学期からは、ひたすら学校側が作成した予想問題集を解く授業を受けていたと言いましたが、特に古文と漢文は完璧で、私が進学した大学の受験問題は、問題文から設問まで、100%当たっていました。

 

さて、一年生のときの担任だったと言いましたが、実は私が学級委員長をしており、この藤原先生には苦労させられたものでした。

後でわかったことですが、担任の職務は不適格とされ、藤原先生は長らく担任の職についておられなかったということでした。

 

それが、よりによって私が学級委員長を務める年に限って、久々に復職されたのです。

なにが苦労だったかと言いますと、とにかく全く担任の仕事をされないのです。

朝礼、終礼、ホームルーム・・・・と、全て私に任されました。

まず、朝礼の前に私が職員室へ出向き(先生は個室でした)、連絡事項を伺って、クラスの皆に伝えるのです、終礼、ホームルームしかりです。

 

本人は何をされているのかと言うと、それが何時出向いても、飲酒でした。授業以外は飲酒されていたのだと思います。机の中には、ボトルが入っていて、常時アルコールの臭いが漂っていました。

おそらく、アルコール依存症だったのではないかと思います。

それでも、学校側が解雇しなかったのですから、藤原先生の学校に対する貢献は多大なものがあったのだと推察されます。

むろん、40年近くも昔のことであり、現在であれば、即時軽くて休職か停職、重くて免職になるでしょう。

 

しかし、苦労をさせられたのにも拘らず、私が先生を恨む?ことがなかったのは、先生の授業のもの凄さでした。酔っぱらっているとはいえ、一旦授業となれば、これはもう別格で、特に漢詩などは、中国語と日本語で朗々と読まれていました。目を瞑って声だけを聞いていると、いつの間にか、すっかりその時代、その風景に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほどで、私が言うのもなんですが、先生の授業は非常に、

『値打ち』

がありました。

 

加えて、昼休みには先生の個室で、酒のつまみをいただきながら雑談をするなど、一人だけ親しくさせていただきました。(飲酒はしていません)

16歳の若さで、藤原先生のようなその分野の一流人と、親密な関係性を学習したことが、後々の師との接し方に参考になったと思っています。

 

超大物極道とオーデマ・ピゲ

『超大物極道とオーデマ・ピゲ』

 

私は師の形見分けとして、世界三大高級時計メーカーの一つに数えられている、オーデマ・ピゲの時計を頂戴しました。正確には、お亡くなりになる数年前に頂戴していますので、結果的に形見分けとなったのです。

 

師が、このオーデマ・ピゲの時計を購入された経緯が経緯ですので、今回はその話をしたいと思います。

 

それは、私が師と出会う10年も前のことです。

師は30歳過ぎに、総本山での荒行を終え、下山されて大阪の堺市近辺に自坊を持たれました。

それから数年後のことです。

ある日、初老の女性が師の寺院を訪ねて来ました。

用件は、

『刑務所に服役中の夫に面会し、魂を救って欲しい』

というものでした。

服役中の夫と言うのは、広域暴力団傘下の元組長でした。抗争に明け暮れ、その生涯の半分以上を刑務所で過ごした男でしたが、癌に犯され、余命半年と宣告されていたのでした。

 

常々、畳の上では死ねないと覚悟していた男でしたが、現実に余命を宣告されると、さすがの筋金入りの武闘派として名を馳せた彼も、急に気弱になったそうです。面会のときに、初めて憔悴し切った夫を見て、女性は何とか仮出所して自宅に戻れないかと、方々に当たって見ましたが、むろん無理な望みでした。

 

落胆していた女性の耳に、師の噂が入ったのは、それからしばらくの事でした。女性は、仮出所が無理であれば、せめて師の言葉で、心の安寧を図って欲しいとの願いを秘めて、師を訪ねたのです。

 

師は、一も二もなく快諾されました。そして、女性の希望通り、男と面会をされたのですが、それから2ヵ月後、女性に思わぬ吉報がもたらされます。

何と、夫の仮出所が認めるという連絡が届いたのです。

言わずもがな、師の尽力によるものでした。男と女性の感謝はこの上ないものだったでしょう。しかも、半年後、男は自宅で息を引き取ったのですが、読経も師が務められたということでした。

 

さて、さらにそれから1年後、今度は師に、思わぬ人物から電話がありました。一般市民ですらその名を知っている、広域暴力団の大親分です。

実は、師が面倒を看た男はその大親分の舎弟だったことがあったのです。

師の恩情に甚く感激した大親分は、お礼として師に1,000円を差し出しましたが、

師は、

『此度のことは、仏縁によるもの』

と、金を受け取ろうとはなさいませんでした。

しかし、大親分も極道の中の極道ですから、

『男が一度出したものは仕舞えん』

と、引き下がりません。

それからしばらく、

『受け取れ』、『受け取れない』

という押し問答が続き、とうとう師は半分の500万円を受け取ることにされたのです。

以来、二人はたまに酒を飲み交わす中になったということでした。

 

さて、受け取った500万円ですが、名前は書いてないとはいうものの、筋の良い金ではありませんから、師は宗務の経費や生活費には使えないと考えられ、半分を京都祇園のクラブや先斗町の御茶屋などで散在し、残りの半分で時計を買い求められたのです。それが、私が頂いたオーデマ・ピゲの時計というわけです。

 

最後に、師がどのようにして男の仮出所を認めさせたのか?

師は最後まで教えて下さいませんでしたので、その後に私が知った師の人脈の中から想像するしかありませんが、おそらく『川島廣守氏』のお力を頼られたのではないかと思われます。

川島氏は、後年プロ野球セリーグの会長や同コミッショナーを歴任されましたが、師とも昵懇の仲だったらしく、セリーグの会長の要請があったとき、受けるかどうか師に相談されたほどでした。結果、師の助言に従い、川島氏は要請を受諾されました。

 

その川島氏ですが、元は警察庁の公安部長や警備局長、内閣官房副長官の要職を務められました。中曽根内閣の内閣官房長官で、『カミソリ後藤田』の異名を取った、後藤田正晴氏の後輩でもありました。

 

東大安田講堂事件や、連合赤軍によるあさま間山荘事件などでは、戦国武将・佐々成政の末裔で、現場指揮を執った佐々淳行氏が、テレビ出演もあり有名ですが、実はこの川島氏こそ、それまで聖域だった大学構内に、機動隊の突入を決断した人物でした。

 

それはともかく、警察庁最高幹部と超大物極道。

社会的に敵対する二人と、同時期に交誼を結ばれていた師は、誠に不思議なお方で、私は退屈するということがありませんでした。

 

 

昭和天皇と安岡先生と師と王貞治氏

昭和天皇と安岡先生と師と王貞治氏。

 

この四者の間を介在した品物があります。

それは『墨』です。

むろん、どこにでもあるような品ではありません。

 

まず、昭和天皇は事ある毎に安岡先生に教示を受けておられました。陛下の大先生に対する信頼の深さは、このブログの第一回に書いた経緯によります。

 

たとえば、前の公務が長引いて、陛下の食事中に大先生が皇居を訪れられたとします。

陛下は必ず、

『安岡を待たせるわけにいかない』

と、食事を中断されてお会いになったそうです。

人徳に優れた陛下のことですから、それは安岡先生に限ったことではなかったかもしれませんが、これはどうでしょうか?

御二人の会談は対面ではなく、ソファーに横に並んで座った状態で行われたそうです。よく、皇室の映像で両陛下が横並びに座られているように、です。

 

おそらく陛下がそのように親密且つ厚遇された民間人は、安岡先生だけだったのではないでしょうか。

 

 

一方、王貞治氏は私の師に師事していました。

現在では、阪神タイガースの金本選手や新井選手の護摩木修行が有名ですが、精神修養もさることながら、スポーツ選手は少なからず神仏に頼るところが多いようで、王氏が師に師事した理由も、

『どうしても三冠王を取りたい』

という一心からでした。

 

それまで、数々の打撃タイトルを獲得していた王氏でしたが、三冠王には縁が無かったので、三冠王獲得は氏の悲願となっていたのです。

誰に紹介されたかはわかりませんが、師の許を訪れた王氏は、

『三冠王達成』の祈願を依頼しました。

 

その甲斐あってか、王氏は1973年、74年と史上初の2年連続三冠王に輝きます。

感謝感激に堪えない王氏は、師に、

『何かお礼を・・・・』

と申し出たのですが、師は、

『祈祷料は十分に頂いています』

と、丁重に断ったそうです。

しかし、どうしても感謝の気持ちを形に表わしたい王氏は、行き下がらなかったそうで、

やむなく師は、

『墨』を所望したということでした。

当時、日本では高級な墨が入手し難くなっており、師は王氏が台湾人であることも考慮に入れた上での要望でした。

王氏は、とにかく親兄弟だけでなく、台湾の知人らにも依頼して高級な墨を捜し求めたということです。

 

さて、その後何かの席で、安岡先生から、

『陛下が良い墨が無くて困っておられるようだ』

と漏れ聞いた師は、王氏から贈呈された墨を陛下に献上されたということです。

 

その墨ですが、私の記憶が正しければ、

縦:約10cm、横:約3cm、厚み:約1cmの大きさで、1枚300万円だったそうです。今から40年前の相場です。

師は、この墨を3枚献上され、陛下から感謝のお言葉を頂いたと言うことです。

 

 

馬堀法眼喜孝画伯


日本最尊敬列伝・その3

今日は昭和の日、旧天皇誕生日ですね。

天皇誕生日と言えば、皆さんは『馬堀法眼喜孝』という人物をご存知でしょうか?

 

おそらく、圧倒的に知らない人が多いのではないでしょうか。しかし年配の方は、日々何度もこの方の作品を目の当たりにしていたはずです。

 

と言うのも、馬堀氏は旧一万円札の聖徳太子、旧千円札の伊藤博文、旧五百円札の岩倉具視などの肖像画の原作者だからです。

 


『法眼』というのは、絵画の最高位とも言うべき称号で、文字通り肖像画の第一人者でした。

 


題して『日本最尊敬列伝・その3:馬堀法眼喜孝画伯』です。

 

画伯は、歴代天皇肖像画や歴代首相肖像画など、歴史に残る人物を数多く描かれているのですが、実を言いますと、私は画伯の作品を師からいただいています。

画伯も師と親交が深く、師が画伯から頂戴した作品の中から、お裾分けしていただいたという次第です。


私は師から様々な物をいただきましたが、当時はその品の価値が分かりませんでした。師が亡くなられた後、それらを鑑定してもらうと、大変な高価な品だったということが判明し、その都度恐縮しました。

 

また、いただいた品一つ一つに面白い?曰くがあるのですが、それも追々書きたいと思っています。


ところで、私は一度画伯と飲食を共にしています。


私が師の自坊に寄宿して数ヶ月経った頃でした。私は、一旦寺院を離れていました。私が師の寺院に寄宿していることを知った檀家や知人らが、師に抗議をしたからです。師の人徳を知る彼らは子息を師に預け、薫陶を得たいと欲しましたが、師は断り続けていました。


ところが、宗教上の弟子ですら持たない師が、何処の馬の骨とも分からない学生を寄宿させたと知って憤慨したのです。


尤もな抗議に、師はほとぼりが冷めるまで、と私を一時外に出したのです。

 


その間のことでした。師から連絡を受け、夕食を共にする事になったのですが、田舎から出て来たばかりの世間知らずの私は、事もあろうにジーンズにサンダル履きで、師の指定したホテルへ出向くという非常識を犯してしまいました。


今思い出しても、恥ずかしさに身が震えますが、師が指定したホテル内の飲食店は、正装かそれに順ずる服装でなければ入店が許可されない高級店だったのです。

 


店先で押し問答している騒ぎを師が聞き付け、師の顔に免じて入ることができたのですが、そのときに紹介していただいたのが、馬堀法眼喜孝画伯だったのです。


師は、どなたであってもあまり詳細に説明されない方でしたので、そのときは画伯がどれほどの高名な画家か理解していませんでした。

 


さて、師からいたいただいた品の中で、馬堀画伯の作品のみ、その価値が分かりません。


まず、肖像画が一般に流通するものではないということ、そして馬堀画伯の作品と言いましたが、正確には絵画ではないからです。ややこしい言い方ですが、画伯は神話時代の神武天皇から昭和天皇まで、124代の肖像画をお書きになっています。

 


画伯の0号サイズの値段から単純計算すると、一枚の値段は億?ということになってしまうのですが、その絵自体をいただいたのではなく、124枚の肖像画を一枚一枚写真に撮り、一つの額に修めた作品をいただいたのです。


額を2枚いただき、1枚は妻の実家に進呈したのですが、下世話な話、この作品がいったいどれだけの価値があるのか、皆目検討が付かないのです。

 


絵としての価値は、合計百億円?以上ということになりますが、所詮は写真です。所詮は写真ですが、とは言え写真の題材は相当な価値の絵画です。


また、絵画ではないものの、画伯の作品として公の会場に展示されたこともありますので、それなりに価値があるのではないかと思うのです。

 


いやあ、何だか今日は、金だ価値だと、下賎な事ばかりを書いてしまい赤面しますが、一応その額を載せます。


ちょっと分かり難くて申し訳ありません。

 


 

 

闘魂 – A・猪木と高田延彦

日本最尊敬列伝

今回の『闘魂』というのは、私の選択ではなく、この人のキャッチフレーズです。

そう今回は、『燃える闘魂』アントニオ猪木氏と、もう一人の人物との想い出を書きたいと思います。

 

その前に、今朝ダルビッシュがヤンキース戦で好投し、3勝目を挙げましたが、よく分からないのが、フジTV系列の『知りたがり』で、ナレーションが『1回を三者凡退・・・』と言っていたことです。細かいことですが、実際は四球を一人出しています。

よく分からないというのは、なぜこんな単純なミスを犯すのだろうか?ということです。あまりに不思議です。試合終了から2時間も経っているのだから、十分確認できるはず。

 

また、昨日の朝ズバ!では、香川のニュースの中で、『欧州四大リーグでの優勝は、中田英寿や中村俊輔がありますが、連覇は初めてです』などとほざいたのです。

明らかな間違いです。中村が所属していたスコティッシュリーグは、欧州リーグランキングの10位以内にも入っていません。

 

考え得るに、試合を見ていない奴が、適当に台本を書いているとしか思えない。

この手のミスは、これに限ったことではありませせん。私は、何度も目の当たりしています。いや、『知りたがり』や『朝ズバ!』は、一応情報番組ですから、目を瞑るとしても、スポーツ番組でもこういうミスがあります。スポーツ番組の制作スタッフぐらいは、ちゃんと試合を見てろよ!と言いたくなります。

 

ついでに、以前日本の国債について、某著名弁護士がしたり顔で『日本の国債は、米国や中国に買って貰わないといけないので、また両国に頭を下げなければならない』と発言しました。

『はあ?』

本当に呆れてしまいます。これで知的さを売り物にしている人物のコメントでしょうか。彼は法律関連以外の、あらゆる分野のテーマに、知ったかぶりのコメントをしています。

まあ、彼に限らず、日本の情報番組は専門外の人間が良くコメントしますね。米国が良いというわけではありませんが、あちらではきっちりとすみ分けされているようです。

 

ご存知のように、日本の国債の90%以上は、日本国内の投資家が購入しています。たしかに、このところ外国人の保有率は上がっていますが、これはドルやユーロの値下がりを懸念し、換金性の高い国債を購入したためで、日本が頭を下げて購入してもらったわけではありません。また、米国や中国が、日本国債を保有する会社の株主であれば、間接的に両国が購入している、と言えなくもありませんが、それはこじつけに過ぎないでしょう。

 

バラエティ?情報?番組だから、適当なことを言っても許される、あるいは頭の隅に残っている知識を確認しないで発言してしまう、この軽率さ・・・・。

このような風潮が垣間見えて嫌悪感を抱きます。

 

さらに、誤字脱字も目に余ります。ワープロ変換の影響なのでしょうが、実際に作業しているであろう新人クラスの若者はともかく、ディレクターなり何なりがちゃんとチェックしろよ、と声を大にして言いたくなります。もし、チェックしてこの状態ならば、完全に国語力が落ちているという、これはこれで由々しき問題になります。

さすがに、新聞に誤字脱字は見られませんが、テレビ局も正確な情報を発信する責務を負っていることに変わりはありません。番組制作者は、その意識が低いように思えてならない近年です。

 

私もあまり偉そうに言うと、自爆してしまいそうですが・・・・。マスメディアの質の低下は、これからも随時触れて行きたいと思います。

 

 

さて、ようやく本題ですが、もう三十年近くも昔になるでしょうか、新婚の年に、師のお誘いで妻と共に総本山へ参拝しました。師の縁の宿坊に泊まったのですが、そこにいたのがA・猪木氏でした。

当時、A・猪木氏は師に師事していましたので、師が誘ったということでした。そしてもう一人、A・猪木氏の付き人として同行していたのが、まだデビュー前の高田伸彦氏でした。

 

『あれ?高田は、「延彦」では?』と疑問に思われるかもしれませんが、デビュー前は『伸彦』でした。

 

二人は本堂で瞑想したり、滝行の水に打たれたりしていました。

本堂への、三百?メートルほどの急勾配の坂道を、私たち夫婦は休み休み上って行きましたが、高田氏はトレーニング代わりにと、走って3,4往復していましたね。プロレスラーの体力ってこういうものなのか・・・・と感心したものでした。

 

師はA・猪木氏と一緒に風呂に入り、私は高田氏と入りました。ともかく、デビューするのが嬉しくて仕方がない様子だったのを覚えています。

高田氏は、とにかく食欲が凄くて、私たちは酒を飲んでいたのですが、高田氏は酒を飲むことはなく、ただひたすら、がっつくように御飯を食べていました。

 

当然、配られた膳では足らず、何杯もお替りをしていました。おかずが足らないだろうと、私たちがそれぞれ一品ずつカンパしたのですが、それでも足らず、最後はお櫃を抱えるようにして御飯のみを食べていました。それはもう、物凄い食欲でした。力士と同じで、身体を大きくすることに必死だったのだと思います。

 

さて、師に断りを入れて、A・猪木氏にサインをお願いすると、氏は快諾したのですが、私が色紙を10枚用意すると、一瞬、

『むっ!』とした表情になりました。

そこで咄嗟に、

『私と妻の親族中が貴方の大ファンなので、とても喜ぶと思います』

と私が言うと、

『お、そうですか』

A・猪木は途端に相好をを崩し、一枚一枚丁寧に書いてくれました。

 

高田氏にもサインを頼んだのですが、こちらは風呂のとき、あらかじめ了解を得ていたこともあって、とにかく色紙はもちろんのこと、Tシャツや手帳や小物類と、ありとあらゆる物にサインをしてもらいました。

高田氏はデビューする前だったので、サインの練習をしていたと思いますが、おそらく初めてのサインだったのでしょう、嫌な顔どころか、嬉しそうに書いてくれましたね。

 

翌朝、レスラーの木村健吾氏が車で迎え来て、帰って行きました。高田氏は車の免許を持っていなかったのか、運転を信用されていなかったのでしょうね。

 

大阪に帰った私はプロレス番組をチェックし、高田氏がデビューするのを心待ちにしていたのですが、いよいよデビュー試合というとき、彼の名前が『延彦』に改名されていたので驚いたものでした。総本山で書いてもらった『高田伸彦』は幻のサインということになるのでしょうね。

 

大変失礼ながら、その後高田氏があれほどの人気レスラーになるとは、思いも寄らないことでしたが、そうなると『高田伸彦』のサインは、たとえば紙幣や切手のミスプリントのように、価値があるではないかと思うのです。

 

以前、『YAHOO!オークションに出品したら、いくらの値が付くかな?』などと、妻に聞いて、顰蹙を買ったことがありました。

 

テレビで活躍している二人の姿を拝見する度に、あの時の光景が懐かしく脳裏に浮かんできます。

 

師の死-悔恨

日本最悔恨列伝

『日本最○列伝』などと、最上段に構えてしまったため、内容が表題から逸れることが多く、恐縮しています。今回も逸れてしまいますがご了解下さい。

 

私には、今もって傷の癒えることのない痛恨事を犯しています。一生、忘れることのない後悔の念が、澱となって心底に横たわっています。

 

題して『日本最悔恨列伝』です。

 

師は、すでに十五年も前に他界されています。

若くして厳しい荒行を達成され、総本山の役員も務め上げられた後、師は下山されました。

下山後も、師は順調に出世?され、五十代前半で京都のある本山の執事長に就任されました。他宗派はわかりませんが、師の宗派では大変に異例の人事でした。というのも、執事長に就任するということは、貫主の後継者と認められたということだからです。もし、五十代で本山の貫主就任となれば、これまた異例中の異例なことでした。

 

 

ところが、手続きの不備から、一転師の貫主就任は混迷を極める事態になります。横槍が入いったため、泥沼の暗闘が繰り広げられたのです。その過程で、欲の無い師は貫主の座を先方に譲ろうとなさいましたが、すでに師を取り巻く思惑がそれを許さず、師は心労のあまり体調を崩されました。

 

結局、師はどうにか貫主の座に就かれましたが、わずか二年後に心労で崩された体調が尾を引き、この世を去られてしまわれたのです。

暗闘の間、師の傍らで経緯をつぶさに見ていた私は、宗教の世界も、いや宗教の世界だからこそ余計に、権力、名誉欲丸出しの横槍に辟易したものです。

『・・・・たら、・・・・れば』と言っても詮無いことですが、もしあの横槍がなかったら、すんなりと師が貫主に就かれていれば・・・・と思うと今も残念でなりません。

ですが、私の悔恨というのは、そのことではありません。私が悔いているのは、師を手助けすることができなかったということです。

いや、宗教上の事に私の出る幕はありませんから、せめて傍らに居た私が師の体調管理に注意をすべきだったと後悔しているのです。師の明らかな体調の異変に、私は気付いていました。気付いていて、ありきたりの気遣いしかしなかったのです。強引に検査をするよう進言しなかったのです。おそらく師は病院へは行かれていないと思われます。

 

正直に言えば、師より私の方が、『五十代で貫主就任・・・・』という冠に拘っていたのです。政治家と同様、病気というのは貫主就任に致命的になります。また、もしこの機会を逃せば、今度は何時チャンスが巡って来るかわからない世界だということも、私にそうさせた要因でした。

 

師の死後、精神的支柱を失った私は抜け殻のようになり、やる気を無くしました。人生の目的を無くし、ただ無為に日々を送っていました。そのような私に、今回の試みを進言してくれたのが、長年の知人・友人であるN氏でした。

 

数年前、ある事で久しぶりに再会したN氏とは、その後定期的に酒を酌み交わすことになったのですが、その折、私が見聞きしたことをブログに書いてみたらどうだ、とアドバイスを受けたのです。

 

正直、当初はやる気がなかったのですが、体調を崩したとき、ふと『もし、このまま死んでしまったら、親、兄弟、親戚たちは、私を誤解したままになってしまう。私の死後、彼らが私の真実の生き様を知る術を残しておきたい』との思いが過ぎりました。

 

そこで、ブログを書くことにしたのですが、その過程で小説も書き始めたということなのです。プロではありませんから、拙い文章ですが、読んでいただけたら幸いです。

上記の師の貫主就任時の暗闘も小説『黒い聖域』として執筆中です。いずれ機会があればアップしたいと思います。

 

 

師との出会い

日本最尊敬列伝
第二回は、やはり私の恩師について話したいと思います。

 

題して、『日本最尊敬列伝』とでも言いましょうか、私が最も敬愛し、尊崇していた人物について書きたいと思います。少々長くなりますが、お付き合い下さい。
私と師との出会いは、第一回(安岡正篤氏についての記述)にも記しましたが、祖母の縁に寄ります。この祖母の縁というのが、少々複雑なのです。

まず、祖母の連れあい、つまり私の祖父は父母ではなく祖母に育てられました。私の祖父の祖母ですから、私の高祖母ということになります。

高祖母は作州、今の岡山県に嫁いでいましたが、祖父が幼い頃、曾祖父母が相次いで他界した為、実家に戻り祖父を育てたのです。高祖母には兄弟がおり、家を継いでいましたが、突然渡米してしまっていたため、高祖母が人肌脱いだということなのです。

 

ここで、少々オカルトっぽくなりますが、高祖母は大変に霊感の強い人だったそうです。

ある夜、高祖母の夢枕に落武者が立ち、こう言ったそうです。

『拙者は、尼子家臣○○××だが、裏の敷地に埋もれておる。掘り出して遺骨を敷地内に埋葬してくれたら、未来永劫、子孫を加護する』

尼子というのは、室町時代中国地方の広範囲を支配した守護大名です。尼子氏は、中国地方全域を支配していた大守護大名の大内氏を破り、その勢力を拡大して行きましたが、後発である毛利元就に破れ、滅亡しました。高祖母の夢枕に立った落武者はその尼子の家臣だというのです。

翌朝、高祖母は隣家の許可を得て、言われたとおりに掘ってみると、確かに人間の骨と武具らしき残骸が出土したので、屋敷の北西の角に祭って丁重に供養したそうです。

高祖母の信心が厚かったのか、後に、この供養地蔵は『正一位月光地主大明神』という高位を授かることになります。

正一位とは、昔の官位で上から、正一位、従一位、正二位・・・・となります。よく時代劇で、将軍が天皇から官位を授かるときに使われるのと同じです。つまり、神様の世界も位というのがあって、高祖母は祭った落武者は最高位まで上り詰めたということになります。

この供養地蔵が正一位に出世?していることを教えてくれた人は、これがまた高名な霊媒師?的な方でした。この人物もユニークな方でしたので、いつか書きたいと思いますが、ともかく私の屋敷の地蔵菩薩様は、大変な力を有する神様になられたというわけです。

余談ですが、人間を祭った仏様がなぜ神様の位を授かるのか?ということですが、それは本来我が国土着の神々に対する信仰と新興勢力である仏教が敵対するのではなく、融合、調和していった『神仏習合』の産物といったところでしょう。

むろん、地蔵菩薩は今も残っており、帰省した折には私も参拝します。

 

さて、高祖母が亡くなるとき、祖母に『地蔵菩薩さんを丁重に祭るように・・・・』との遺言を残しました。それまでの祖母は、それほど信仰心があったわけではありませんが、昔の人は実直ですから、高祖母の遺言を忠実に守ったのです。そのうち、信仰心がどんどん厚くなって行き、とうとう毎朝夕、神棚と地主さんに読経するようになりました。

祖母は96歳で亡くなりましたが、幸い認知症を患うことがなかったせいか、亡くなる直前まで経を暗記していました。これには私も恐れ入ったものでした。

 

ところで、落武者の言った加護らしい逸話を一つ。

私が母のお腹にいるとわかったとき、母は体調が悪く、医者から絶命の危険があるので、堕胎するよう勧められましたが、母は何としても私を生みたかったらしく、命を賭けて生む決意をしました。高祖母から落武者の言葉を聞いていた祖母は、それを信じ地主さんへの一層の信仰に努めました。その甲斐あってか、母子共に無事に出産し、今の私があるのです。

 

その私は、高校時代に精神の病に罹りました。今で言えば、引きこもりといったところでしょうか、そのせいで一浪し、二浪も確実な状況になりました。心配した祖母は、霊験あらたかと聞けば、足を運んで祈祷をしてもらいました。気が向けば、私も同道しましたが、いっこうに回復の兆しが見られませんでした。

 

そのような、二浪も覚悟した年末のことでした。祖母の耳に、近くの町のお寺に、大変な荒行を終えた高僧が寄院されているという噂が入りました。

なんでも、その高僧が最寄りの駅に降り立つや、一目尊顔を拝したいとの信者で溢れており、お寺までの道路脇も人並みで途切れることがなかったということです。

その高僧こそが、私の師だったのです。

 

祖母はさっそく、そのお寺に電話をし、師との面談を懇願しました。というのも、信心深かかった祖母は、宗派が違えども年中行事には必ず参拝しており、住職とは面識があったからです。実は、住職は師の実父であり、祖母に同行して、私も一度面談したことがあったのですが、残念ながら住職の法力では、私の病気は平癒しませんでした。

 

忘れもしません。年も押し迫った12月29日でした。大雪の降る中、私と祖母はお寺の山門を潜りました。

応接間に通され、すでに着座されていた師を見たとき、大袈裟でもなんでもなく体中に電流が奔ったような衝撃を受けました。

私は心の中で、『この方だ!この方が私の病気を治して下さる!』と叫んでいました。

正直に言うと、師との会話は憶えていません。というより理解出来なかったという方が正確でしょう。

仏教の世界観と論語の一説だったと思いますが、それが理解できたのは、数年も後のことでした。

師は会話の最後に、『年が明けたら私の許に来ないか?』と言われ、

私は躊躇することなく即座に『はい』と答えました。横にいた祖母は、呆然と眺めているだけでした。祖母だけでなく、家に帰った私を家族全員が、私が『生まれ変わった』と確信したそうです。

 

師との約束どおり、正月が過ぎると、すぐに大阪の師の自坊に寄宿したのですが、そこでいきなり仰天の事態が待ち受けていました。

もうとっくの昔に時効ですから、正直に話しますが、師と出会うまでの私は、東京の私立大学の文系に、師と出会ってからは、大阪のそれに方針を変えたのですが、いずれにせよ国語と日本史には自信があったものの、英語が苦手でした。

そのことを私から聞いていた師は、家庭教師を用意して下さったのですが、その方は私が進学を希望していた大学の文学部教授だったのです。しかも、受験問題作成担当の一員という曰く付きです。

誓って言いますが、受験問題の漏洩は一切ありませんでした。ただ、先生から憶えておくようにと渡された単語リストは役に立ったと思います。

お陰様?でしょうか、試験は概ね出来が良く、自己採点では、国語は3問、日本史は1問のみの不正解で、英語はたぶん80点ぐらいだったと思います。十分に合格点だったと思いますが、帰宅した私はさらに驚愕することになるのです。

試験の出来を問われ、

『良く出来ました』と答えた私に、師は、

『君は合格したよ』

と、涼しげな顔で言われたのです。

私は、一瞬何をおっしゃっているのかわかりませんでした。そして、次の瞬間、未来を見通す『神通力か?』と思いました。

というのも、またオカルトっぽくなりますが、信仰心を強めて行った祖母は、徐々に霊感が開花したらしく、読経の際に神との交信が出来るようになって行きました。家族や親戚の相談に乗り、たとえば高校や大学受験などの合否を当てるようになっていたのです。もっとも、受験などは合格する自信のある学校を選択する訳ですから、50%以下の確率であろう事例を言い当て、いわゆる奇跡を起こしたというわけではありません。

ともかく、祖母でさえそのような力があるのですから、本格的な修行を終えた高僧であれば、どのような神通力があるとも限らないと考えたのです。

 

ですが、事実は違いました。

師はあっさりと、

『受験前に、理事長と話は付いていた』

とおっしゃったのです。

何のことはない。私は受験前に、すでに理事長枠で合格していたのです。しかし、そのことを受験前に私に知らせると気を緩めるので、黙っておられたということなのです。

ですから、私は正規に合格点を取ったかどうかわからず仕舞いで入学することになりました。

 

さて、寺院での寄宿生活ですが、これがまた奇想天外なものだったのですが、それもまた追々書いて行きたいと思います。

 

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