なでしこJAPAN

日本最驚列伝

今回は、がらりと話題を変えて、スポーツに関して一言。サッカー、それもなでしこJAPANについて話したいと思います。

 

題して『日本最驚列伝』です。

 

『驚』・・・・そう、私が最近もっとも驚いているのが、なでしこJAPANの成長です。

 

ご存知の通り、なでしこJAPANは昨年の女子W杯で優勝し、世界一の栄冠に輝きました。日本が主要世界大会で優勝したのは、男女を通じ初めてという快挙でした。

 

 

ほんの数年前までは、アメリカ、ドイツどころか、同じアジアの中国、北朝鮮にすら及ばない実力だったのに、いつの間にか、いえ弛まない努力をしていたのでしょうね、見事に世界のトップに辿り着きました。

 

しかし、私が驚いているのは、W杯での優勝ではありません。その後の彼女たちの精進と精神力の強さです。

W杯の試合を見た人であればわかると思いますが、勝ったとはいえ(アメリカ戦は、公式には引き分け)、内容的にはドイツ、アメリカに押されており、もし判定競技であれば、アメリカ戦は『判定負け』というところでしょう。

 

つまり、実力的にはアメリカ、ドイツの方が上だったのです。ところが、彼女たちあるいはアメリカの選手も口にしていたように、『目に見えない力』に後押しされながら戦っていたのでしょう。もしそれが、昨年の東北地方を襲った大震災の悲劇であるとすれば、私はある意味で、なでしこJAPANはW杯で力を使い果たしたと思いました。

 

加えて、帰国後の彼女たちを待ち受けた狂騒劇。その殺人的スケジュールは、彼女たちの身体を蝕んで行くと思われました。私は、このままではコンディションが整わないまま五輪へと突入し、おそらく期待を裏切る結果になり、国民の失望を買う。そのような懸念を抱きました。

 

ところが、ポルトガルで行われたアルガルベ杯でのなでしこJAPANの闘い振りを見て、私はわが目を疑いました。

W杯のときより、数段成長していたのです。

たしかに、決勝のドイツには惜敗しましたが、三対四という結果もさることながら、逆境から二度も追い付くという試合展開はこれまでのなでしこJAPANには考えられないことでした。W杯決勝でアメリカに二度追い付いたのとは、全くレベルの違うものでした。

しかも、私の見たところ、ドイツは百%近い出来でしたが、日本は八十%程度の出来にも拘らず、です。そして、順序は逆になりましたが、その前のアメリカ戦です。

W杯での三対七という試合内容から、五対五の全くのイーブンの内容に成長していました。なでしこJAPANは、W杯後も急速な成長を遂げていたのです。

 

さらに、キリンカップのアメリカ戦です。この試合では、完璧に王者としての風格を備え、試合内容もそれに相応しいものでした。

このようなことがあるのか?私は、この一年未満の間のなでしこJAPANの成長振りを見るに付け、驚き入りました。

人間というものは、信念を持って努力を怠らなければ、成長を勝ち取ることができる。あらためてそのことを教えられました。
いかに彼女たちが、W杯の優勝に浮かれることなく、確固たる意志をもって努力していたか。頭の下がる思いです。

しかも、怪我の功名というべきか、大黒柱の沢選手が病気で欠場し、彼女なしでのシミュレーションもすることが出来たというおまけ付です。

 

 

なでしこJAPANが五輪で金メダルを獲るかどうかはわかりません。アメリカの逆襲も考えられますしね。

ですが、仮に金メダルを獲れなくても、私は王者らしく振舞うであろう彼女らを心から賞賛するつもりです。

 

香川、本田、長友、内田、酒井高、岡崎、宮市・・・・・日本サッカーは、男子の方も物凄いことになっています。こちらも、いずれ取り上げたいと思います。

 

 

 

師との出会い

日本最尊敬列伝
第二回は、やはり私の恩師について話したいと思います。

 

題して、『日本最尊敬列伝』とでも言いましょうか、私が最も敬愛し、尊崇していた人物について書きたいと思います。少々長くなりますが、お付き合い下さい。
私と師との出会いは、第一回(安岡正篤氏についての記述)にも記しましたが、祖母の縁に寄ります。この祖母の縁というのが、少々複雑なのです。

まず、祖母の連れあい、つまり私の祖父は父母ではなく祖母に育てられました。私の祖父の祖母ですから、私の高祖母ということになります。

高祖母は作州、今の岡山県に嫁いでいましたが、祖父が幼い頃、曾祖父母が相次いで他界した為、実家に戻り祖父を育てたのです。高祖母には兄弟がおり、家を継いでいましたが、突然渡米してしまっていたため、高祖母が人肌脱いだということなのです。

 

ここで、少々オカルトっぽくなりますが、高祖母は大変に霊感の強い人だったそうです。

ある夜、高祖母の夢枕に落武者が立ち、こう言ったそうです。

『拙者は、尼子家臣○○××だが、裏の敷地に埋もれておる。掘り出して遺骨を敷地内に埋葬してくれたら、未来永劫、子孫を加護する』

尼子というのは、室町時代中国地方の広範囲を支配した守護大名です。尼子氏は、中国地方全域を支配していた大守護大名の大内氏を破り、その勢力を拡大して行きましたが、後発である毛利元就に破れ、滅亡しました。高祖母の夢枕に立った落武者はその尼子の家臣だというのです。

翌朝、高祖母は隣家の許可を得て、言われたとおりに掘ってみると、確かに人間の骨と武具らしき残骸が出土したので、屋敷の北西の角に祭って丁重に供養したそうです。

高祖母の信心が厚かったのか、後に、この供養地蔵は『正一位月光地主大明神』という高位を授かることになります。

正一位とは、昔の官位で上から、正一位、従一位、正二位・・・・となります。よく時代劇で、将軍が天皇から官位を授かるときに使われるのと同じです。つまり、神様の世界も位というのがあって、高祖母は祭った落武者は最高位まで上り詰めたということになります。

この供養地蔵が正一位に出世?していることを教えてくれた人は、これがまた高名な霊媒師?的な方でした。この人物もユニークな方でしたので、いつか書きたいと思いますが、ともかく私の屋敷の地蔵菩薩様は、大変な力を有する神様になられたというわけです。

余談ですが、人間を祭った仏様がなぜ神様の位を授かるのか?ということですが、それは本来我が国土着の神々に対する信仰と新興勢力である仏教が敵対するのではなく、融合、調和していった『神仏習合』の産物といったところでしょう。

むろん、地蔵菩薩は今も残っており、帰省した折には私も参拝します。

 

さて、高祖母が亡くなるとき、祖母に『地蔵菩薩さんを丁重に祭るように・・・・』との遺言を残しました。それまでの祖母は、それほど信仰心があったわけではありませんが、昔の人は実直ですから、高祖母の遺言を忠実に守ったのです。そのうち、信仰心がどんどん厚くなって行き、とうとう毎朝夕、神棚と地主さんに読経するようになりました。

祖母は96歳で亡くなりましたが、幸い認知症を患うことがなかったせいか、亡くなる直前まで経を暗記していました。これには私も恐れ入ったものでした。

 

ところで、落武者の言った加護らしい逸話を一つ。

私が母のお腹にいるとわかったとき、母は体調が悪く、医者から絶命の危険があるので、堕胎するよう勧められましたが、母は何としても私を生みたかったらしく、命を賭けて生む決意をしました。高祖母から落武者の言葉を聞いていた祖母は、それを信じ地主さんへの一層の信仰に努めました。その甲斐あってか、母子共に無事に出産し、今の私があるのです。

 

その私は、高校時代に精神の病に罹りました。今で言えば、引きこもりといったところでしょうか、そのせいで一浪し、二浪も確実な状況になりました。心配した祖母は、霊験あらたかと聞けば、足を運んで祈祷をしてもらいました。気が向けば、私も同道しましたが、いっこうに回復の兆しが見られませんでした。

 

そのような、二浪も覚悟した年末のことでした。祖母の耳に、近くの町のお寺に、大変な荒行を終えた高僧が寄院されているという噂が入りました。

なんでも、その高僧が最寄りの駅に降り立つや、一目尊顔を拝したいとの信者で溢れており、お寺までの道路脇も人並みで途切れることがなかったということです。

その高僧こそが、私の師だったのです。

 

祖母はさっそく、そのお寺に電話をし、師との面談を懇願しました。というのも、信心深かかった祖母は、宗派が違えども年中行事には必ず参拝しており、住職とは面識があったからです。実は、住職は師の実父であり、祖母に同行して、私も一度面談したことがあったのですが、残念ながら住職の法力では、私の病気は平癒しませんでした。

 

忘れもしません。年も押し迫った12月29日でした。大雪の降る中、私と祖母はお寺の山門を潜りました。

応接間に通され、すでに着座されていた師を見たとき、大袈裟でもなんでもなく体中に電流が奔ったような衝撃を受けました。

私は心の中で、『この方だ!この方が私の病気を治して下さる!』と叫んでいました。

正直に言うと、師との会話は憶えていません。というより理解出来なかったという方が正確でしょう。

仏教の世界観と論語の一説だったと思いますが、それが理解できたのは、数年も後のことでした。

師は会話の最後に、『年が明けたら私の許に来ないか?』と言われ、

私は躊躇することなく即座に『はい』と答えました。横にいた祖母は、呆然と眺めているだけでした。祖母だけでなく、家に帰った私を家族全員が、私が『生まれ変わった』と確信したそうです。

 

師との約束どおり、正月が過ぎると、すぐに大阪の師の自坊に寄宿したのですが、そこでいきなり仰天の事態が待ち受けていました。

もうとっくの昔に時効ですから、正直に話しますが、師と出会うまでの私は、東京の私立大学の文系に、師と出会ってからは、大阪のそれに方針を変えたのですが、いずれにせよ国語と日本史には自信があったものの、英語が苦手でした。

そのことを私から聞いていた師は、家庭教師を用意して下さったのですが、その方は私が進学を希望していた大学の文学部教授だったのです。しかも、受験問題作成担当の一員という曰く付きです。

誓って言いますが、受験問題の漏洩は一切ありませんでした。ただ、先生から憶えておくようにと渡された単語リストは役に立ったと思います。

お陰様?でしょうか、試験は概ね出来が良く、自己採点では、国語は3問、日本史は1問のみの不正解で、英語はたぶん80点ぐらいだったと思います。十分に合格点だったと思いますが、帰宅した私はさらに驚愕することになるのです。

試験の出来を問われ、

『良く出来ました』と答えた私に、師は、

『君は合格したよ』

と、涼しげな顔で言われたのです。

私は、一瞬何をおっしゃっているのかわかりませんでした。そして、次の瞬間、未来を見通す『神通力か?』と思いました。

というのも、またオカルトっぽくなりますが、信仰心を強めて行った祖母は、徐々に霊感が開花したらしく、読経の際に神との交信が出来るようになって行きました。家族や親戚の相談に乗り、たとえば高校や大学受験などの合否を当てるようになっていたのです。もっとも、受験などは合格する自信のある学校を選択する訳ですから、50%以下の確率であろう事例を言い当て、いわゆる奇跡を起こしたというわけではありません。

ともかく、祖母でさえそのような力があるのですから、本格的な修行を終えた高僧であれば、どのような神通力があるとも限らないと考えたのです。

 

ですが、事実は違いました。

師はあっさりと、

『受験前に、理事長と話は付いていた』

とおっしゃったのです。

何のことはない。私は受験前に、すでに理事長枠で合格していたのです。しかし、そのことを受験前に私に知らせると気を緩めるので、黙っておられたということなのです。

ですから、私は正規に合格点を取ったかどうかわからず仕舞いで入学することになりました。

 

さて、寺院での寄宿生活ですが、これがまた奇想天外なものだったのですが、それもまた追々書いて行きたいと思います。

 

安岡正篤

日本最大フィクサー列伝

さて、記念すべき第一回は、やはり私がこれまで出合った中で、最も印象深かった人物について話したいと思います。

フィクサー、日本語では黒幕と訳すのでしょうか。表の登場人物の影に隠れて、実質的に差配している大物を指します。

今日のように高度情報化社会になりますと、死語になった感もしますね。

たとえば、昨今の政界を見ても、なんだか皆小粒になってしまい、あるいは裏で仕切っている人物がいないせいか、混迷の色を濃くしている感が否めません。

 

一昔前ですと、今太閤とかコンピューター付きブルドーザーとかの異名を取った田中角栄氏が長年キングメーカーとして君臨し、政界を仕切っていましたが、彼などは政界最後の黒幕といったところでしょうか。もっとも、本来の意味での黒幕というのは、決して表に出ることはありませんから、厳密には黒幕というのに該当しないのかもしれませんが・・・・。

 

誤解のないように言っておきますと、黒幕と聞けば、イメージ的には悪人を想像してしまいますが、必ずしもそうではありません。もし全くの悪人であれば、その世界の頂点に上り詰めることなどできないと思うからです。頑なまでの信念があり、己の主義主張に従って行動する。ただ、時として反目する勢力とは暴力的、犯罪的な方法で解決を図ったかもしれませんが・・・・。

 

話を元に戻しますと、本来のフィクサー(黒幕)と言えば、真っ先に『児玉誉士夫』の名が上がると思います。若い人たちは知らないと思いますが・・・・。

氏についての経歴は、ウィキペディアで検索すれば詳細にわかりますのでここでは差し控えますが、彼などは本物のフィクサーでしょう。氏の繋がりで言えば、笹川良一氏や小佐野賢治氏もフィクサーに該当します。

 

ですが、ここで私が取り上げたい日本最大フィクサーは安岡正篤氏です。

『安岡?誰?』という人や、『安岡先生がフィクサー?』という疑問、違和感を抱く人もいるでしょうが、世に広く影響を与えたという観点から、氏を取り上げたいと思います。

現実に、戦後の歴代の首相のほとんどが『日本の最大の黒幕は安岡先生』と口にしていることですし、差支えないないと考えます。

氏の経歴についても、児玉氏と同理由で差し控えますが、氏は高名な陽明学者です。私見ですが、日本の歴史上でも五指に数えられる大学者だと思います。

氏の祖先は、たしか岡山・池田藩の重臣の家系だったと思います。幼少の頃より、『神童』との誉れが高く、東京帝国大学在学中には、すでに国の要職にあった国士たちも門人としていました。氏は陽明学だけではなく、四書・五経など、いわゆる中国の古書にも精通し、その思想哲学は数多の政財界人に影響を与えました。

 

世間的に有名なのは、戦後の詔勅発表(玉音放送)に加筆したことでしょうか。原文を読んだ氏は、内容があまりに自虐的であったため、日本と日本民族の誇りを保つための最低限の加筆を行い、昭和天皇の信頼を受けました。一説には、天皇自らから『安岡に相談せよ』との命があったという話もあります。

また、『平成』の元号の発案者も氏であることは広く知られているところでしょう。

 

実は、もう数十年も前のことですが、私は晩年の安岡氏に、直にお目に掛かり教示していただいたことがあるのです。

私は大学生のとき、祖母の縁で、ある仏教宗派の高僧、しかもただの高僧ではなく、その宗派において『○○以来の傑物』と高く評されていた高僧の寺院に寄宿させていただき、薫陶を得ていました。言わば、私の人生の師匠です。(様々な事情から、名前は差し控えさせていただきます)

大学一回生の夏、私は師に同道して、名古屋にある寺院の多宝塔の落慶式に参列しました。その式の主賓として招かれていたのが、安岡氏でした。

私はそのときの光景をいまでも鮮烈に記憶しています。周囲は、それこそ天皇陛下をお迎えしたような接遇をしていました。

その場で師から安岡氏に紹介していただき、教示をしていただくようになったのです。と言っても、堅苦しい講義ではなく、酒宴の席での師と安岡氏との談笑を拝聴していただけですが・・・・。

ともかく、そういう経緯から、私は安岡氏を勝手に大師匠と心に刻んできましたので、以降は大先生と記したいと思います。

ちなみに、もうお気付きでしょうが、私のペンネームは大先生と師の縁の文字を使わせてもらいました。

 

師と大先生の交誼は、師が大学生のとき、大先生に手紙を送ったことから始まります。師も中国思想を学んでいましたので、当然大先生が執筆された書物、論文も読破していたのですが、自分の見解と異なる部分を、恐れ多いことに『認識違いである』と手紙で指摘したのです。後に、師は『若気の至り』と大いに恥じ入ったそうですが、当の大先生は師のことを気に入り、直接会って『君の説も一理ある』と言われたそうです。

むろん、大先生の解釈の方が、妥当性があったことでしょう。しかし、当代一の大学者が一学生の意見に耳を傾け、自分の主張を押し付けることなどしない。出来そうで、なかなか出来ないことだと思います。まさに、大先生の人柄、人徳が垣間見れた逸話だと思います。

それを契機にして、二人は親交を深めていくことになるのです。その過程で、師がその若さに似合わず、相当な荒行を積んでいることをお知りになり、大先生はますます師に親近感を覚えられたようです。大先生の実兄に、高野山金剛峰寺の第403世・堀田真快座主がいたことも、それを増幅する要因だったかもしれません。

 

最後に、師より伝え聞いた大先生の零れ話を一つ。

何しろ、大先生は戦後歴代総理の指南番でもあったため、逸話には事欠きません。たとえば、総理の演説の原稿なども校正されていたようで、沖縄返還交渉で渡米した佐藤栄作総理の国連総会での演説も大先生が校正されたと聞いています。あるとき、その佐藤総理の命で、ある演説の原稿を受け取るよう命を受けた若き日の田中角栄氏は、大先生に『近くに来て、一杯やりなさい』と酒を勧められても、控えの間に座し、決して大先生に近寄ることはなかったそうです。

後年、そのことについて聞かれた田中角栄氏は、『あんな恐ろしい方の傍になど、とても近付けるものではなかった』と感慨深げに話したそうです。

『恐ろしい・・・・』たしかに、田中角栄氏には申し訳ないが、俗欲(田中氏の場合は権力欲)のある人には、その心中を見透かされているようで、恐縮したかもしれません。

私はまだ田舎から上京したばかりの無学な学生でしたし、大先生も晩年ということで、丸くなられた?せいもあってか、大変に優しい老学者にしか映りませんでした。

当時は、インターネットなどありませんし、師も大先生の詳しい素性を説明されなかったので、大先生の偉大さに気付かなかったのです。その後、師との会話の内容から、とてつもない大人物だと認識が深まり、お会いする度に、却って緊張感が増していったのを憶えています。

 

晩年、大先生は自分が指南していた人々に、『自分の後は、この人に相談すると良い』と、師を紹介されたため、私も各界の名立たる人物との知己を得る恩恵に与りました。

その折の、逸話も追々記していきたいと思いますが、今回はこれまでとさせていただきます。

 

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