安岡正篤

日本最大フィクサー列伝

さて、記念すべき第一回は、やはり私がこれまで出合った中で、最も印象深かった人物について話したいと思います。

フィクサー、日本語では黒幕と訳すのでしょうか。表の登場人物の影に隠れて、実質的に差配している大物を指します。

今日のように高度情報化社会になりますと、死語になった感もしますね。

たとえば、昨今の政界を見ても、なんだか皆小粒になってしまい、あるいは裏で仕切っている人物がいないせいか、混迷の色を濃くしている感が否めません。

 

一昔前ですと、今太閤とかコンピューター付きブルドーザーとかの異名を取った田中角栄氏が長年キングメーカーとして君臨し、政界を仕切っていましたが、彼などは政界最後の黒幕といったところでしょうか。もっとも、本来の意味での黒幕というのは、決して表に出ることはありませんから、厳密には黒幕というのに該当しないのかもしれませんが・・・・。

 

誤解のないように言っておきますと、黒幕と聞けば、イメージ的には悪人を想像してしまいますが、必ずしもそうではありません。もし全くの悪人であれば、その世界の頂点に上り詰めることなどできないと思うからです。頑なまでの信念があり、己の主義主張に従って行動する。ただ、時として反目する勢力とは暴力的、犯罪的な方法で解決を図ったかもしれませんが・・・・。

 

話を元に戻しますと、本来のフィクサー(黒幕)と言えば、真っ先に『児玉誉士夫』の名が上がると思います。若い人たちは知らないと思いますが・・・・。

氏についての経歴は、ウィキペディアで検索すれば詳細にわかりますのでここでは差し控えますが、彼などは本物のフィクサーでしょう。氏の繋がりで言えば、笹川良一氏や小佐野賢治氏もフィクサーに該当します。

 

ですが、ここで私が取り上げたい日本最大フィクサーは安岡正篤氏です。

『安岡?誰?』という人や、『安岡先生がフィクサー?』という疑問、違和感を抱く人もいるでしょうが、世に広く影響を与えたという観点から、氏を取り上げたいと思います。

現実に、戦後の歴代の首相のほとんどが『日本の最大の黒幕は安岡先生』と口にしていることですし、差支えないないと考えます。

氏の経歴についても、児玉氏と同理由で差し控えますが、氏は高名な陽明学者です。私見ですが、日本の歴史上でも五指に数えられる大学者だと思います。

氏の祖先は、たしか岡山・池田藩の重臣の家系だったと思います。幼少の頃より、『神童』との誉れが高く、東京帝国大学在学中には、すでに国の要職にあった国士たちも門人としていました。氏は陽明学だけではなく、四書・五経など、いわゆる中国の古書にも精通し、その思想哲学は数多の政財界人に影響を与えました。

 

世間的に有名なのは、戦後の詔勅発表(玉音放送)に加筆したことでしょうか。原文を読んだ氏は、内容があまりに自虐的であったため、日本と日本民族の誇りを保つための最低限の加筆を行い、昭和天皇の信頼を受けました。一説には、天皇自らから『安岡に相談せよ』との命があったという話もあります。

また、『平成』の元号の発案者も氏であることは広く知られているところでしょう。

 

実は、もう数十年も前のことですが、私は晩年の安岡氏に、直にお目に掛かり教示していただいたことがあるのです。

私は大学生のとき、祖母の縁で、ある仏教宗派の高僧、しかもただの高僧ではなく、その宗派において『○○以来の傑物』と高く評されていた高僧の寺院に寄宿させていただき、薫陶を得ていました。言わば、私の人生の師匠です。(様々な事情から、名前は差し控えさせていただきます)

大学一回生の夏、私は師に同道して、名古屋にある寺院の多宝塔の落慶式に参列しました。その式の主賓として招かれていたのが、安岡氏でした。

私はそのときの光景をいまでも鮮烈に記憶しています。周囲は、それこそ天皇陛下をお迎えしたような接遇をしていました。

その場で師から安岡氏に紹介していただき、教示をしていただくようになったのです。と言っても、堅苦しい講義ではなく、酒宴の席での師と安岡氏との談笑を拝聴していただけですが・・・・。

ともかく、そういう経緯から、私は安岡氏を勝手に大師匠と心に刻んできましたので、以降は大先生と記したいと思います。

ちなみに、もうお気付きでしょうが、私のペンネームは大先生と師の縁の文字を使わせてもらいました。

 

師と大先生の交誼は、師が大学生のとき、大先生に手紙を送ったことから始まります。師も中国思想を学んでいましたので、当然大先生が執筆された書物、論文も読破していたのですが、自分の見解と異なる部分を、恐れ多いことに『認識違いである』と手紙で指摘したのです。後に、師は『若気の至り』と大いに恥じ入ったそうですが、当の大先生は師のことを気に入り、直接会って『君の説も一理ある』と言われたそうです。

むろん、大先生の解釈の方が、妥当性があったことでしょう。しかし、当代一の大学者が一学生の意見に耳を傾け、自分の主張を押し付けることなどしない。出来そうで、なかなか出来ないことだと思います。まさに、大先生の人柄、人徳が垣間見れた逸話だと思います。

それを契機にして、二人は親交を深めていくことになるのです。その過程で、師がその若さに似合わず、相当な荒行を積んでいることをお知りになり、大先生はますます師に親近感を覚えられたようです。大先生の実兄に、高野山金剛峰寺の第403世・堀田真快座主がいたことも、それを増幅する要因だったかもしれません。

 

最後に、師より伝え聞いた大先生の零れ話を一つ。

何しろ、大先生は戦後歴代総理の指南番でもあったため、逸話には事欠きません。たとえば、総理の演説の原稿なども校正されていたようで、沖縄返還交渉で渡米した佐藤栄作総理の国連総会での演説も大先生が校正されたと聞いています。あるとき、その佐藤総理の命で、ある演説の原稿を受け取るよう命を受けた若き日の田中角栄氏は、大先生に『近くに来て、一杯やりなさい』と酒を勧められても、控えの間に座し、決して大先生に近寄ることはなかったそうです。

後年、そのことについて聞かれた田中角栄氏は、『あんな恐ろしい方の傍になど、とても近付けるものではなかった』と感慨深げに話したそうです。

『恐ろしい・・・・』たしかに、田中角栄氏には申し訳ないが、俗欲(田中氏の場合は権力欲)のある人には、その心中を見透かされているようで、恐縮したかもしれません。

私はまだ田舎から上京したばかりの無学な学生でしたし、大先生も晩年ということで、丸くなられた?せいもあってか、大変に優しい老学者にしか映りませんでした。

当時は、インターネットなどありませんし、師も大先生の詳しい素性を説明されなかったので、大先生の偉大さに気付かなかったのです。その後、師との会話の内容から、とてつもない大人物だと認識が深まり、お会いする度に、却って緊張感が増していったのを憶えています。

 

晩年、大先生は自分が指南していた人々に、『自分の後は、この人に相談すると良い』と、師を紹介されたため、私も各界の名立たる人物との知己を得る恩恵に与りました。

その折の、逸話も追々記していきたいと思いますが、今回はこれまでとさせていただきます。

 

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