マドンナ・その2
日本最美少女列伝
私が、マドンナを親友・Aに紹介してから半年後の秋、なぜ私とマドンナが恋人同士になったのか?
残念ながら、現実の話ではありません。また、夢の話でもありません。
私が通った高校は、大変な進学校で修学旅行はありませんでしたが、体育祭や文化祭は大掛かりだったと書きました。
その文化祭は、土日の2日間に渡って行われました。3学年・全30クラスが各々出し物を考えます。
合唱、演劇、露天商、ゲーム場、定番の幽霊屋敷・・・・。
合唱や演劇は体育館、幽霊屋敷は、剣道場や柔道場を使いましたが、その他は基本的に教室が会場となるので、自ずと出し物は制限されました。
手軽さ?から、やはり合唱や演劇が圧倒的に多かったですね。
さて、我がクラスですが、クラスメートにTという男がいました。このTは映画が大好きで、鑑賞はもちろん、高価な機材を購入して、風景などを中心に撮影していたようでした。
実は、私もカメラや映写機には興味があり、中学のときには、お年玉や小遣いを貯めて、4万円もする8mm映写機を購入したほどでした。
その年、家を新築しましたので、古い家の面影や、解体から新築されるまでの過程を記録しておきたかったのです。
ちなみに、その頃私が何度も店に通い、親しくなったお陰で、映写機を安くしてくれた写真機店の店主は、あの福山雅治の写真の師匠・植田正治(うえだしょうじ)氏です。
映写機が取り持つ縁で、私とT氏は親しくなったのですが、そのTが文化祭の出し物として映画作品を提案したのです。
在校した3年間はもちろん、その前にも映画を上演したことは無かったと記憶しています。
ともかく、斬新な試みに、クラスメートも担任も乗り気になり、2作品を制作することになりました。私とTで撮影、脚本、キャスティングを取り仕切りました。
肝心の作品ですが、
1つは、当時人気絶頂だった、ブルース・リーの影響でカンフーもの、
もう一つが、王道の恋愛ものでした。
私は制作側だったのですが、Tの依頼で、カンフーの作品に出演する事になりました。役は、主人公と敵対する組織の首領役、つまり悪役でした。
私は、小学校の高学年のとき、空手を習っていたので、型が決まっていたからでしょう。
さて問題は、恋愛作品の方でした。
内容は、これが後年、映画化やテレビドラマ化もされた、大ベストセラー小説『世界の中心で愛を叫ぶ』の内容に酷似していました。まあ、考える事は似たり寄ったりという事でしょうか。
ヒロイン役は、これはもうマドンナで異論はなかったのですが、問題は相手役でした。
何しろ、マドンナの相手ですから、どうしても役不足になってしまうのは明らかで、皆尻込みをしてしまったのです。
それこそ、本物の彼であるAであれば、ピッタリなのですが、他のクラスの生徒を出演させるわけにはいきません。
困り果てた私とTは、マドンナ本人に意見を求めました。すると、彼女は相手役に私を指名したのです。
少なからず驚きましたが、私は脚本も担当していましたし、カンフーの作品にも重要な役で出演が決まっています。とてもじゃないが、作品を掛け持ちなど出来るはずもありません。
私は断ったのですが、マドンナが引き下がらないので、結局カンフーの方は子分役に変更して出演時間を減らし、マドンナの相手役を務めることになったのです。
マドンナと私が恋人同士なったというのは、こういうことです。
マドンナが、相手役に私を選んだ理由ですが、
Aを紹介し、彼と付き合うことになったことで、彼女が私に感謝の念を抱いたのは間違いないでしょう。
その証拠に、席が隣だったこともあり、二人はますます話をするようになりました。それこそ、Aよりも話す時間は長かったと思います。何も知らない者の目には、私たちが恋人同士に映っていたほどでした。
誰でもそうでしょうが、付き合い始めというのは、なにかと気を使うものではないでしょうか。
『こんなことを言ったら嫌われやしないか・・・・ああ言えば・・・・こんなことをしたら・・・・』
と、私も神経を使った経験があります。
マドンナはあくまでもAの彼女ですから、たとえ嫌われても失うものの無い私は、言いたいことを言っていました。遠慮なく、はっきりと本音を漏らしていました。
おそらく、彼女もそうだったのではないでしょうか。ある意味、私との会話でストレスを発散していたのでしょう。
言うまでもありませんが、私はAの親友ですから、マドンナより彼のことを知っているわけで、彼の中学時代の事を話したことも、二人が親しくなって行った要因だったと思います。
以上のことから、彼女にしてみれば、他の男生徒に比べ、気を使う事が無いというのが理由だったと思われます。
一方で、Aにしても、私なら信用が置けますし、たとえ自分の彼女と抱き合うシーンがあったとしても、他の男生徒よりは、嫉妬しなかったのでしょう。
これもまた、マドンナが私を選んだ理由の一つだったかもしれません。
撮影は、校内はもちろん、湖畔、河川敷、城内、堀端、市内・・・・とあらゆる場所をロケして回りました。
撮影期間は一ヶ月ほどでしたが、その間はずっとマドンナと一緒でした。平日は授業後の夕方から、日曜、祝日は朝から昼間のシーンの撮影をしました。
周囲に、監督・撮影のTやスタッフ、共演者はいたものの、二人きりのシーンが多かったので、待ち時間など、とにかく二人だけでいることが多かったのです。むろん、Aよりもずっと長い時間です。
内容はと言いますと、恋人同士ですから台本にはキスシーンもあるのです。もちろん、本当にキスはしませんでした。ギリギリまで唇を近づけ、後はカメラの角度で誤魔化すのです。
しかし、抱擁や頬を合わせるシーンなどは実際にしました。そして彼女の豊満な胸の感触や息遣いを身体で感じました。
疑似恋愛とはいえ、一ヶ月も続けていると、妙な感情が湧いてくるものです。高校生の稚拙な映画でさえ、彼女に特別な感情が芽生えるのですから、テレビドラマや映画で競演した芸能人が、実際に交際に発展して行くのも理解できるような気がします。
さて、最後のシーンですが、ロケ地は湖畔でした。時刻は夕方。
私は彼女の方を抱き、湖に沈んでゆく夕陽を眺めながら、会話をします。
大学へ行ったら・・・・
就職したら・・・・
結婚したら・・・・
子供が出来たら・・・・
子供が結婚して、また二人きりに戻ったら・・・・
しかし、とうとう彼女の返事が返って来なくなり、私の膝に崩れ落ちました。
最後のシーンを撮り終えたときでした。
マドンナは、膝の顔を私に向けると、上目遣いに、
『安岡君(実際は本名です)の方が良かったかな』
と、ポツリと零したのです。
『えっ?』
私は、彼女の言葉を消化できませんでした。
そのうち、Tや他の同級生たちが近づいてきてしまったので、彼女に真意は分からず仕舞いになりました。まさか、あらためて真意を訊ねる勇気もなく、私と同じように一時的に錯覚を覚えたのだろうと想像しました。
その後、Aとは順調に交際を続けていましたから、私に気が有ったということでないでしょう。同窓会でもあれば、確かめてみたいと思っていますが、彼女が覚えているかどうかさえも定かではありませんがね・・・・。
私たちが制作した映画は好評を得ました。二日間、朝から夕方まで途切れずに上映しましたが、毎回満席でした。といっても教室でしたから、1度の上映で鑑賞できる人数は50名ぐらいでしたがね。
さて、文化祭は一般にも公開されていましたので、他校の生徒も数多く訪れていたのですが、このことが私の現実の恋の転機となったのです。
2日目の午後でした。
同級生の女生徒から呼び出され、私は校舎裏へ行きました。
すると、そこに一人の女性が待っていました。
小柄で、可愛らしい女性でした。マドンナとは対照的で、決して美人とは言えませんが、顔立ちもその佇まいも、実に愛くるしいものでした。
見知らぬ彼女に、私が戸惑っていると、
『安岡君、私を覚えていません?』
彼女の口から意外な言葉が飛び出しました。
『はあ?』
私にはいっこうに覚えがありません。すると彼女は、
『中学校三年生の夏です』
と微笑んだのです。
『中学三年生の夏?・・・・あ、ああ・・・もしかして、君はあのときの・・・・』
私は、ようやく彼女のことを思い出しました。たしかに、私は目の前の彼女と、夏の一夜を共にしていたのです。
彼女と夏の夜を共にしたとは、いったいどういうことなのか?
続きは、また近いうちに・・・・・。
大相撲
日本最八百長列伝・その1:
昨年末、サッカー・イタリアセリエAの選手16名が八百長で逮捕されるという事件がありました。イタリアは、数年前に名門ユベントスの幹部が、審判を買収したとして、懲罰を受けましたが、懲りませんね。
八百長の形態は、
自チーム優勝のために、審判や相手選手を買収する。
マフィア絡みの賭博のため、審判や選手を買収する。
の二つです。
イタリアだけでなく、中国のサッカーのリーグも八百長が蔓延し、ファンは嫌気が察しているようですし、韓国はもっと酷く、野球、サッカー、バレー、バスケット・・・・なんとあらゆる競技で八百長があったと、国を揺るがす騒ぎになっています。なぜか、日本ではあまり報道されませんがね・・・・。
まあ、韓国の場合、宜しくないのは、国内だけでなく国際大会でも審判買収問題が発覚している事ですね。たとえば、古くはソウル五輪でボクシングの審判買収がありましたし、2002年のサッカー日韓共催W杯での審判買収も実しやかに噂されています。
特に、欧州での評判が悪く、当該のイタリア、スペインはもちろん、ポルトガルやイングランド、オランダ、ドイツ、フランス、・・・・といずれもサッカー強豪国の評判は芳しくありません。
さて、かく言う日本も先年、大相撲で八百長が発覚し、国民の顰蹙を買いましたが、実はこの相撲の八百長、私は20十年以上も前に、当時の現役力士の口から言質を取っていました。
もっとも、今となっては、録音していたわけでも有りませんし、『言った、言わない』の、押し問答になるでしょうがね。
題して、『日本最八百長列伝・その1:大相撲』です。
その前に、何を隠そう、私はある野球賭博にも関わり、警察の家宅捜査と事情聴取を受けたこともありますので、いずれそちらの顛末も書きたいと思います。(注:ただ巻き込まれただけで、首謀者ではありません。もちろん、不起訴です)
私の師は、ある名門相撲部屋の後援をしていました。
後援と言っても、数多くの後援会があり、たとえば、テレビで優勝力士が大きな杯を口にしたり、鯛を持ち上げたりしているシーンが流れますが、そのとき周りを囲んでいる人たち、いわゆる『タニマチ』のような存在ではありませんでした。
部屋というより、親方からある力士の薫陶を依頼されたのです。その親方は、自分の娘とその力士を結婚させ、部屋を継がせる腹積もりだったらしく、力士の人間教育を師に頼んだということなのです。
大阪場所になると、必ず相撲観戦した後、力士と師と私の三人で飲食したものでした。
料理旅館・宝家で食事し、ミナミのクラブへ足を運ぶ。そういう感じでした。
宝家は旅館だったので、大きな総檜の風呂が有り、力士と一緒に入ったものでした。そういったことから、自然と親しくなり、そのうちに二人だけで遊ぶ事も多くなりました。
余談ですが、当時の女将はひとかどの人物だったようで、彼女の気風というか度胸を物語る逸話があります。
宝家の近所に、ある病院があるのですが、そこに広域暴力団のとある大物組長が入院していたことがありました。
ある日、地方の組長ら数人が、その大物組長を見舞った後、食事をしようと、宝家に立ち寄ったのですが、女将はきっぱりと断ったそうです。
口で言うのは簡単ですが、客商売ですから、どのような報復を被るとも限りません。食事だけなら・・・・と考えてもおかしくはないのですが、暖簾を上げたときからの方針を貫き通した女将はたいしたものだと思います。
一方、断られた組長の方も、一言の文句も言わずに立ち去ったという事ですから、それなりの人物だったということでしょうか。
そうしたある日の、食事の折でした。
力士の次の日の取り組み相手が横綱だったので、
『明日の横綱戦、頑張って下さい』
私が発破を掛けると、力士は、
『いやあ、それはちょっと・・・・』
急に歯切れが悪くなりました。そのときは、まさか八百長などとは思いも寄らず、
『金星を取れば、三賞も芽も出るでしょう』
と、言葉を継いだのですが、
『いや、駄目です。もう話が付いているのです』
今度は目を逸らすように言ったのです。
さすがに、私にも分かりました。
『じゃあ、上手に負けて下さい』
などど、訳の分からぬ激励をして、話を終りにしたのを憶えています。相手は横綱ですから、引退後は協会に残り、行く行くは幹部、もしかしたら理事長にだってなる可能性はあります。引退後、相撲界に残りたければ、受けざるをえなかったのでしょう。長いものには巻かれろ、です。
その後、いつものように朝まで遊ぶつもりでクラブへ移動すると、彼の方から、
『今日は、0時で失礼します』
と言い出したのです。
『何か用事があるんですか?』
と訊くと、彼はにやっと笑い、
『奈良へ・・・・』
とだけ言いました。私はその一言で、すぐに女性だと察しました。と言うのも、結局のところ、彼は親方の娘とは縁がなかったようで、一般の女性と婚約を発表していたからです。
ところが、22時過ぎ、彼が宿舎に電話を入れると、親方の命令で急遽宿舎へ戻ることになりました。
まだ、携帯が本格的に出回る前でしたので、彼は定期的に連絡を入れていたのですが、どうやら緊急事態が起こったようでした。
さて、それから数日後、週刊誌やテレビのワイドショーでは、その力士の話題で持ち切りになりました。彼が婚約者の他に女性を作っていたのです。奈良とは、その女性が住んでいるところだったのでしょう。
あの夜の緊急事態とは、どうやら出版社側から、記事のゲラ刷りが届いたようでした。
そして、さらに数日後、テレビはカメラの前で謝罪会見をする彼の姿を映し出していました。
彼は今、部屋付きの親方として後進の指導に当たりながら、HNKの解説者としても活躍していますので、実名は伏せましたが、当時かなりマスコミを騒がしましたから、何となく見当が付くかもしれませんね。