天才とキチ○イは紙一重

俗に、良くそう言われていますが、私の高校一年生のときの担任が、まさにそのような人でした。もっとも、『キチ○イ』というのは言い過ぎで、極端な『変わり者』と言ったところでしょうか。

 

藤原先生と言って、代々地元でも有名な由緒正しき古社の神官でもありました。専攻は漢文学で、その分野では日本でも五指に数えられるほどの高名な学者で、長らくNHKの『市民大学講座?』のような番組で漢文を担当されていました。

神官職を継ぐ必要がなければ、大学で教鞭をとっておられたことでしょう。

 

私が通った高校は、県下一の名門進学校ですが、特に国語はこの藤原先生がおられたこともあってか、古文、現代国語にも優秀な先生方が揃い、当時全国屈指の教諭陣と称賛されていました。その証拠?ではありませんが、あの毎年東大進学率・全国一位を誇る灘高校から試験問題の作成を依頼されているほどでした。

 

以前、三年生の二学期からは、ひたすら学校側が作成した予想問題集を解く授業を受けていたと言いましたが、特に古文と漢文は完璧で、私が進学した大学の受験問題は、問題文から設問まで、100%当たっていました。

 

さて、一年生のときの担任だったと言いましたが、実は私が学級委員長をしており、この藤原先生には苦労させられたものでした。

後でわかったことですが、担任の職務は不適格とされ、藤原先生は長らく担任の職についておられなかったということでした。

 

それが、よりによって私が学級委員長を務める年に限って、久々に復職されたのです。

なにが苦労だったかと言いますと、とにかく全く担任の仕事をされないのです。

朝礼、終礼、ホームルーム・・・・と、全て私に任されました。

まず、朝礼の前に私が職員室へ出向き(先生は個室でした)、連絡事項を伺って、クラスの皆に伝えるのです、終礼、ホームルームしかりです。

 

本人は何をされているのかと言うと、それが何時出向いても、飲酒でした。授業以外は飲酒されていたのだと思います。机の中には、ボトルが入っていて、常時アルコールの臭いが漂っていました。

おそらく、アルコール依存症だったのではないかと思います。

それでも、学校側が解雇しなかったのですから、藤原先生の学校に対する貢献は多大なものがあったのだと推察されます。

むろん、40年近くも昔のことであり、現在であれば、即時軽くて休職か停職、重くて免職になるでしょう。

 

しかし、苦労をさせられたのにも拘らず、私が先生を恨む?ことがなかったのは、先生の授業のもの凄さでした。酔っぱらっているとはいえ、一旦授業となれば、これはもう別格で、特に漢詩などは、中国語と日本語で朗々と読まれていました。目を瞑って声だけを聞いていると、いつの間にか、すっかりその時代、その風景に迷い込んだかのような錯覚を覚えるほどで、私が言うのもなんですが、先生の授業は非常に、

『値打ち』

がありました。

 

加えて、昼休みには先生の個室で、酒のつまみをいただきながら雑談をするなど、一人だけ親しくさせていただきました。(飲酒はしていません)

16歳の若さで、藤原先生のようなその分野の一流人と、親密な関係性を学習したことが、後々の師との接し方に参考になったと思っています。

 

マドンナ・その4

中学3年生の夏の、生徒会合同会議で他校の女生徒と知り合い、2年後の秋、その彼女から告白を受けた私は、無慈悲にも即断で断りました。

彼女の勇気ある告白が、脳裡の片隅に宿っていたある少女の笑顔を蘇らせたからです。

 

以前、私の祖父は大のアンチ巨人で、阪神ファンだと言いましたが、野球全般が大好きで、高校野球・甲子園大会などは、1日中テレビの前に陣取り、スコアブックを付けながら観戦していました。

スコアブックといっても、本格的なものではなく、得点経過と攻撃内容、所感を記載したものでしたが・・・・。

高校野球は甲子園大会だけでなく、地方予選から注目するほどで、私を連れて球場観戦もしていました。

 

その女の子を初めて見たのは、私がまだ5歳のときでした。

その日、祖父に連れられて、地方予選を観戦しに街へ出掛けました。バスに乗って行くのですが、その頃のバスは昇降口が中央の一ケ所だけで、運転手の横は座席がありました。当然、私はいつもその見晴らしの良い特等席を陣取っていました。

 

バスが二つ隣村の停留所で止まったときでした。

側道から、私と同じ年頃の子供たち4人が目の前を横切りました。3人の男の子に混じって女の子が一人だけいたのですが、彼女が一瞬、私の方を振り返り、にこっと笑ったのです。

 

その瞬間、私はそれこそキューピットに胸を矢で射られたように、魅入られてしまいました。可愛い女の子でした。私が通っていた幼稚園にはいない可愛いらしい女の子でした。

 

『フランス人形だ・・・・』

 

とても不思議なのですが、その後しばらくの間、私の脳に刻まれた女の子の残像は金髪だったのです。フラン人形など見たこともなかったと思いますが、なぜかその思いが強く残ったのでした。

私が、祖父から教えてもらった村の名も同時に刻み込んだのは言うまでもありません。

とはいえ、なにせ5歳児のことですから、半年もすればすっかり忘れていたと思います。

 

彼女の残像が、蘇ったのは小学校5年生の秋でした。小学校対抗のポートボール大会に、5年生ながら選抜されて大会に臨んでいたのですが、会場の中に、一際は輝きを放つ女生徒がいたのです。

私は彼女の顔を見たとき、6年前のあの女の子だと確信しました。6年の月日が流れており、顔立ちは変わっていましたが、確かに彼女だと確信しました。あの幼い女の子は、とても美しく成長していました。

私は、出来るだけ彼女の情報を集め、憧れていた大親友・Aと同じ小学校で、名前はMH、そして彼女も5年生だということを知りました。

 

『1年半後には、彼女と同じ中学校に通うことになる』

そのときから、私の胸は夢と希望に満ち溢れていったのです。

 

満を持して入学した私でしたが、思わぬ事件が障害となりました。例の、入学早々の授業中の暴行事件です。この行為は、男子生徒の間では、何というか畏敬の念を持って一目置かれることになったのですが、女子生徒の間では、『怖い』という印象を植え付けてしまっていたのでした。

彼女も例外でなく、たとえば廊下ですれ違うときなど、目を合わさぬようにするのです。

その上、

『彼女は誰々が好きらしい・・・・』

という噂話も耳にした私は、絶望にうちのめされました。

初恋の終りでした。

私には子供がいませんので、今の中学生はどうか知りませんが、40年も昔の田舎の中学生など、自分で言うのもなんですが、そのように初心なものでした。

 

それが、思わぬ告白を受けて、フラッシュバックのようにMHの顔が過ぎり、彼女への想いが込み上げてきたのです。

『このままでは、後悔する。駄目で元々、MHに告白しよう』

 

青春ですね。

私にも、あのような迸る情熱があったのだと思うと、なつかしいやら気恥ずかしいやら・・・・。

ともかく、熱い想いを押さえ切れない私は、すぐさま自転車通学の友人に頼み込み、自転車を借りてHMが通う高校を目指したのです。

彼女の高校も文化祭を開催していることを知っていましたので、勢いに任せて告白してしまおうと思ったのでした。

彼女が通う高校は、5キロほど南に下ったところにあり、私の高校に比べると歴史は浅いものの、近年、学力その他で迫って来ている高校でした。いわば、ライバル校で、毎年全スポーツ部の対抗戦も行われていました。

 

まるで、熱に犯されたように夢中で彼女の高校に向かった私でしたが、ちょうど中間点となる湖に掛かった大橋のたもとで、まだクラスの仕事が残っていることに気付きました。

私は無断で外に出たのです。もし、戻るのが遅くなれば、クラスメートに迷惑が掛かるばかりか、心配を掛けることにもなります。場合によっては、騒動にだってなりかねません。

何より、いかに文化祭とはいえ、無断で校内を出ることは校則違反でした。晩秋の冷たい潮風に当たり冷静になった私は、そこで引き返すこととし、告白は後日にしようと決めたのでした。

 

 

 

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