師の薫陶

師から受けた薫陶と言っても、たとえば『論語』や『中庸』などの古書の講義を受けるというような、取り立てて『これだ!』というのはありませんでした。むろん、師は自身の宗派の教義を押し付けるなど、決して為さいませんでしたから、専ら雑巾掛け、トイレ掃除、庭の掃除、洗濯などの雑用をこなしていました。
とは言え、いずれも私にとっては生まれて初めてのことばかりでしたから、最初は勝手が分からず戸惑ったものでした。師は、たとえ私が失敗しても、怒られるということはなく、懇切丁寧にやり方を教えて下さいました。

師は大変に忙しい方でしたので、大阪に居られることは、一年のうちの1/3程度で、一日中自坊におられたのは、仏教の年中行事のときぐらいでした。ちなみに、師はいわゆる『檀家』をお持ちではありませんでしたので、葬儀、法要等に縛られることはなかったようです。

自坊に居られたときの食事は、外食が殆どで、出前を取ることも滅多にありませんでした。四年間の寄宿生活の中で(離れた期間も含める)、私が食事の用意をしたのは、ほんの数回でした。

特別な講義などは受けなかったのですが、在院のときは必ずと言って良いほど、訪問客があり、その折には用件が済むと、私も酒の席に同席させてもらいましたので、その際の会話は良く聞いていました。経済人が多かったのですが、政治家や文化人、ジャーナリストなどもいましたので、様々な世界を垣間見ることが出来たと思います。

さて、そうは言いながらも、薫陶と言うか、試練を受けたことが一度だけありました。
私が、師の寺院に寄宿してからしばらくして、一旦師の許を離れたときのことでした。
理由は、以前にも述べましたが、私を寄宿させたことで、信者や知人から度重なる抗議を受けておられたからです。
ともかく、その間は早朝、掃除のために寺院に通い、一旦大学に戻って講義を受け、師の在院のときに限り、再び寺院に戻るという生活をしていました。

そのようなある日、奇妙なことが起こりました。
その日、私に東京へ出向いているはずの師から、すぐに寺院へ来るようにと連絡が入ったのです。急遽、予定を変更して、指定された時間に駆け付けたのですが、玄関の鍵が閉まっており、不在の様子なのです。寄宿時には鍵を預かっていましたが、外に出たときに返していたのです。

疑問に思った私は、公衆電話から電話をしてみましたが、繋がりませんでした。仕方なく、近所の喫茶店で三十分ほど時間を潰し、もう一度訪ねてみましたが、やはり不在でした。もちろん電話も繋がりません。

私はまた喫茶店へ行きました。
このようなことを三度繰り返しましたが、状況の変化がないことに業を煮やした私は、師の予定が変わったのだろう、と勝手に判断し、アパートに帰りました。
翌日、師に再び呼び出され、寺院に出向いた私は、烈火の如き叱責を受けました。実は、私は師に試されていたのです。呼び出されたものの、不在のときどのような行動を取るのか、観察されていたのでした。

師は、後に首相になった竹下登氏がまだ官房長官の時代、師匠の田中角栄氏の私邸に呼ばれると、すでに政府の要人の身であるにも拘わらず、新人の頃と変わりなく、進んで雑巾掛けをしたという逸話を例に挙げられ、不在と分かったとき、たとえ掃除をしたばかりであっても、もう一度草取りをするとか、水を撒くとかすらせず、そのまま立ち去った私を厳しく戒められたのでした。

私は泣きました。取留めもなく涙が出ました。可愛がってくれた祖父の死に際にも、父の死に臨んでも、一粒の涙も流さなかった私が大泣きしたのです。温厚な師に、初めて叱責されたということもありましたが、師の許での半年余りの書生修行はいったい何だったのか。師から受けたはずの様々な教えの意味を、全く理解していなかった自分が情けなくて涙が出たのでした。

それを機に、私がいっそう気持ちを込めて、雑用をこなすようになったのは言うまでもありません。

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