超大物極道とオーデマ・ピゲ

『超大物極道とオーデマ・ピゲ』

 

私は師の形見分けとして、世界三大高級時計メーカーの一つに数えられている、オーデマ・ピゲの時計を頂戴しました。正確には、お亡くなりになる数年前に頂戴していますので、結果的に形見分けとなったのです。

 

師が、このオーデマ・ピゲの時計を購入された経緯が経緯ですので、今回はその話をしたいと思います。

 

それは、私が師と出会う10年も前のことです。

師は30歳過ぎに、総本山での荒行を終え、下山されて大阪の堺市近辺に自坊を持たれました。

それから数年後のことです。

ある日、初老の女性が師の寺院を訪ねて来ました。

用件は、

『刑務所に服役中の夫に面会し、魂を救って欲しい』

というものでした。

服役中の夫と言うのは、広域暴力団傘下の元組長でした。抗争に明け暮れ、その生涯の半分以上を刑務所で過ごした男でしたが、癌に犯され、余命半年と宣告されていたのでした。

 

常々、畳の上では死ねないと覚悟していた男でしたが、現実に余命を宣告されると、さすがの筋金入りの武闘派として名を馳せた彼も、急に気弱になったそうです。面会のときに、初めて憔悴し切った夫を見て、女性は何とか仮出所して自宅に戻れないかと、方々に当たって見ましたが、むろん無理な望みでした。

 

落胆していた女性の耳に、師の噂が入ったのは、それからしばらくの事でした。女性は、仮出所が無理であれば、せめて師の言葉で、心の安寧を図って欲しいとの願いを秘めて、師を訪ねたのです。

 

師は、一も二もなく快諾されました。そして、女性の希望通り、男と面会をされたのですが、それから2ヵ月後、女性に思わぬ吉報がもたらされます。

何と、夫の仮出所が認めるという連絡が届いたのです。

言わずもがな、師の尽力によるものでした。男と女性の感謝はこの上ないものだったでしょう。しかも、半年後、男は自宅で息を引き取ったのですが、読経も師が務められたということでした。

 

さて、さらにそれから1年後、今度は師に、思わぬ人物から電話がありました。一般市民ですらその名を知っている、広域暴力団の大親分です。

実は、師が面倒を看た男はその大親分の舎弟だったことがあったのです。

師の恩情に甚く感激した大親分は、お礼として師に1,000円を差し出しましたが、

師は、

『此度のことは、仏縁によるもの』

と、金を受け取ろうとはなさいませんでした。

しかし、大親分も極道の中の極道ですから、

『男が一度出したものは仕舞えん』

と、引き下がりません。

それからしばらく、

『受け取れ』、『受け取れない』

という押し問答が続き、とうとう師は半分の500万円を受け取ることにされたのです。

以来、二人はたまに酒を飲み交わす中になったということでした。

 

さて、受け取った500万円ですが、名前は書いてないとはいうものの、筋の良い金ではありませんから、師は宗務の経費や生活費には使えないと考えられ、半分を京都祇園のクラブや先斗町の御茶屋などで散在し、残りの半分で時計を買い求められたのです。それが、私が頂いたオーデマ・ピゲの時計というわけです。

 

最後に、師がどのようにして男の仮出所を認めさせたのか?

師は最後まで教えて下さいませんでしたので、その後に私が知った師の人脈の中から想像するしかありませんが、おそらく『川島廣守氏』のお力を頼られたのではないかと思われます。

川島氏は、後年プロ野球セリーグの会長や同コミッショナーを歴任されましたが、師とも昵懇の仲だったらしく、セリーグの会長の要請があったとき、受けるかどうか師に相談されたほどでした。結果、師の助言に従い、川島氏は要請を受諾されました。

 

その川島氏ですが、元は警察庁の公安部長や警備局長、内閣官房副長官の要職を務められました。中曽根内閣の内閣官房長官で、『カミソリ後藤田』の異名を取った、後藤田正晴氏の後輩でもありました。

 

東大安田講堂事件や、連合赤軍によるあさま間山荘事件などでは、戦国武将・佐々成政の末裔で、現場指揮を執った佐々淳行氏が、テレビ出演もあり有名ですが、実はこの川島氏こそ、それまで聖域だった大学構内に、機動隊の突入を決断した人物でした。

 

それはともかく、警察庁最高幹部と超大物極道。

社会的に敵対する二人と、同時期に交誼を結ばれていた師は、誠に不思議なお方で、私は退屈するということがありませんでした。

 

 

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