酒と涙と男と女


若くして亡くなった河島英五の代表曲です。


良い曲ですね。今はあまり歌わなくなりましたが、私にはとても思い入れのある曲で、以前は飲み屋へ行くと必ず歌っていました。


私は今でこそ、カラオケ大好きで、歌唱力もまあまあだと、勝手に自負していますが、実は社会人になりたての頃は、人前で歌を歌うことが、苦手と言うか苦痛以外の何者でもありませんでした。


音痴だったのです。今の私を知る人からすれば、とても信じられないことでしょう。

 


それが、どうにか人前で歌うことに馴れ、歌唱力もそれなりになるきっかけとなったのが、大阪・北新地のラウンジ『辰巳』のママとの出会いでした。

 


私が初めて辰巳を訪れたのは、入社早々、新人歓迎会の二次会だったと思います。上司に連れられてのことでした。私の他にも同伴者がいて、総勢5名だったと思います。


北新地と言っても、『辰巳』は小さなラウンジで、カウンターが5席と、ボックス席が3つだったと記憶しています。ママとホステス2人という小さなお店でした。

 


当然のごとく、カラオケが始まり、上司を含め他の者は次々と持ち歌?を披露したのですが、それまでカラオケに行ったことも、人前で歌を歌ったこともない私は、歌える歌が無く選曲に躊躇っていました。

 


しかし、皆が2曲目、3曲目と歌って行くうち、しだいに私への催促が強まって行きました。こうなると、どうしても歌わなければならない雰囲気となり、とうとう覚悟を決めた私は、この『酒と涙と男と女』を歌ったのです。


この歌は、ラジオなどで耳にしていて、好きな歌だったのですが、音痴でしたので、上手く歌えるはずがありません。

 


ママが私に話し掛けてきたのは、御開きになったときでした。私たちを見送るため、一緒に店の外へ出たママが、こう私に耳打ちしたのです。


『明日、19時に一人でお店にいらっしゃい』

 


私にはどういう意味か分かりませんでしたが、ママがもう一度、


『必ずいらっしゃいよ』


と、念を押したので、翌日言われた時刻にお店に出向いたのです。

 


お店のドアを開けると、ママはすでに掃除を終え、開店の準備は終わっていました。


そして、カラオケをセットすると、ママは、


『さあ、開店まで練習しなさい』


と言って、『酒と涙と男と女』を何度も何度も掛けてくれ、歌唱指導までしてくれたのです。

 


そういうことが、断続的に十回ぐらいあったと思います。


お陰さまで、どうにか『酒と涙と男と女』がそれなりに歌えるようになり、そうなると現金なもので、次の曲、次の曲というように、新たな曲に色気が出ました。曲をマスターすることに満足感も覚えるようになりました。


その後、私が急にマイクを持つことに積極的になり、且つ歌が上手くなったことに、同僚たちは目を丸くしていたのを思い出します。

 


それから、一年半後だったと思います。突然、辰巳のホステスから、ママが病気で入院したとの連絡がありました。


当然、見舞おうと入院先を訪ねましたが、ママの希望で教えられないとのことでした。


そして、さらに半年後、今度はママの訃報が届きました。彼女は癌だったのです。


あ、遅くなりましたが、ママは七十歳ぐらいのお婆さんでした。

 


ともかく、上司は常連だったようですが、初対面の私に開店までの一時間、無料でカラオケを開放してくれ、そのうえ喉が渇いただろうと、ビールも1本サービスしてくれたママは、いったいどのような了見だったのか。亡くなってしまった以上、知る術もありません。私は、ママの真意を聞くことも出来ないままになってしまいました。

 


しかも、気を使った私が、


『このまま残って客になる』


と申し出ても、ママは笑って拒否しました。安月給だと知っていたからでしょう。


稀に、そのまま店に残ることを了承しても、料金は頑として受け取りませんでした。

 


むろん、ママが入院するまでには、何度か店にも行きましたが、そのときも正規の料金は取っていなかったと思います。


私は、出世払いを心に決めていましたし、事実それから五年後の一時期、北新地の店を河岸とするようになりましたが、時すでに遅し、受けた恩を返すことは適いませんでした。

 


今では、北新地に足を踏み入れることも無くなりましたが、足繁く北新地に通っていた頃、辰巳があったビルの前に立つと、当時を思い出し、心の中で頭を垂れていました。

 

 


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